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テキストアイコン芸術における空間(第27回哲高レジュメ)

【編集註:esさんによるレジュメです。html化にあたり、タグ付けによる解釈(見出しレベルなど)が入っています。また、発音記号が省略された部分があります】

我々の五感(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚)による知覚、即ち感官知覚によって直観的に捉え得るものが空間であると、ここでは一応の定義をしておく。では我々が空間を認識するためには、五感の内一つでも欠けることなく、その全てによって知覚しなければいけないのだろうか。我々が空間と聞いて一般的に想起するものとして、例えば自然空間がある。我々は森に行き、木を見て、何かの音を聞き、空気に触れ、草木の匂いを嗅ぐ。これらが同時に成立することによって、初めて我々はこれを森という空間として認識することができるのであろう。しかし一方で、ここにおいて味覚は何ら役割を果たさない。つまり味覚は、森という空間を認識するために無くてもいいもの、不必要なものである。これにより、空間を認識するためには必ずしも五感の全てによって知覚する必要はないといえる。しかしそうとはいえ、味覚のみ、或いは触覚や嗅覚のみによって我々は空間を認識し得るのかといえば、それは甚だ疑問である。そもそも空間とは奥行きと広がりと高さがあり、またそれこそが空間の空間たる所以である。そして我々はその奥行きと広がりと高さを視覚によって把捉し得るのだから、空間を認識するために必要な感覚は視覚である。また視覚ほどではないが、聴覚によってもそれらをある程度は把捉することができる。故にここでは、芸術について論じるにあたって視覚(と聴覚)を重視する傾向にある舞台芸術と造形芸術、特に演劇と彫刻に主眼を置く。また同じく視覚を重視する傾向にある芸術の中でも、絵画や映画、写真が議論の範疇外である理由は、それらが表現する空間が、二次元的な平面に還元された擬似空間だからである。では芸術における空間とは何なのか、それを第一章で論じ、そこから生じた問題について順次、章を追うごとに議論していく。

1.芸術における空間

芸術における空間を考えるにあたってまず、芸術の何が、芸術固有の空間を作り出すのかを考えなければならない。芸術の本質や起源を模倣(mimesis)することに帰結させる思想は、古くはアリストテレスにまで遡る。アリストテレスは悲劇について論じた著作『詩学』の中で、模倣とは詩作の製作原理であることを述べているが、しかしこれは詩作のみに限定されず、芸術一般の製作原理であることもわかる。

「叙事詩と悲劇の詩作、それに喜劇とディーテュラムボスの詩作、アウロス笛とキタラー琴の音楽の大部分、これらすべては、まとめて再現といえる。しかしこれらは三つの点、すなわち、(1)異なった媒体によって、(2)異なった対象を、(3)異なった方法で再現し、同じ方法で再現しないという点において、互いに異なる」(岩波版『詩学・詩論』岡道男、松本仁助訳、21頁)

ここではmimesisを模倣ではなく再現と訳されているが、ここでは議論を先に進めるため に、とりあえずは模倣≒再現であると理解していただきたい。ここでアリストテレスは他 の芸術についても、その製作原理が模倣であることを認めている。またアリストテレスは 「再現をする者は行為する人間を再現する」(同書、24頁)として、模倣される客体が人 間(の行為)であり、それにより模倣する主体もまた人間であると規定している。アリス トテレスによるこの模倣における主体・客体の問題への言及を踏まえれば、次に物による 物の模倣という問題についても考えることができる。物による物の模倣とは、ここでは造 形芸術、即ち彫刻における問題である。この場合、模倣の主体とは彫刻の素材(金属、石、 木材等)であり、客体とは自然物(の造形や色彩)である。また佐々木健一が『美学辞典』 において指摘するように、本来日本語の「模倣する」は行為概念であるが、この二つの用 法に応じて模倣概念が両義的であるといえる(cf.佐々木健一『美学辞典』、45頁)。では、 この模倣こそが芸術に固有の、その製作原理の一つであるとするなら、模倣が行われてい る一定範囲の空間こそが芸術であるということができるのではないか。

2.芸術における模倣

とはいえ、先に述べたように舞台芸術や造形芸術の全てを模倣であると帰結させること はできないだろう。模倣するということは、いわばその見本たる模範があるということに なる。例えば演劇で我々が普段驚いたり喜んだりしたときに伴う動作を模倣したり、彫刻 で実在する特定の人物を模倣することは、即ち客観的実在を模範としているのである。で は主観的観念を模範とした場合はどうなのか。それは例えばギリシャ悲劇における「機械 仕掛けの神」や彫刻における『ミロのヴィーナス』など、神話に登場する空想上の神や天 使などの観念的なものを模範とした場合である。これらは果たして模倣と呼べないなら何 と呼ぶべきなのだろうか。佐々木健一の『美学辞典』における〈表現〉概念の定義によれ ば「目に見えないもの、観念的なものに対して、目に見える形を与えること、もしくはそ の目に見える形そのもの」であるという(cf.佐々木健一『美学辞典』、53頁)。つまりこの ような主観的観念を模範としてそれを芸術という形で外部に形象化する営みを、我々は模 倣ではなく表現と呼ぶべきではないのだろうか。では模倣と表現はそれぞれが独立してい るのだろうか。はたまた互いに何らかの関係性を有するのだろうか。神や天使などの存在 は、確かに客観的実在性を欠いていながらも、しかし人の形を模範としていることは、先 に挙げた『ミロのヴィーナス』や宗教画でしばしば描かれるそれを見れば明らかである。 即ち神や天使のような主観的観念とは、作家がそれを作品として形象化する前の段階にお いて、その具体的な外見を作家の精神的な内部で描く際に、人の形を模範として、その客 観的実在を(非物理的に)模倣しているのである。故に表現は、その過程において模倣す ることを前提としているのである。よって以上をまとめるならば、芸術における空間とは、 模倣または表現によって、或いは模倣と表現を両立させることによって成立する感性的認 識の対象であるということができる。しかし建築の場合、模倣や表現とはいえるだろうか。 建築は、例えば住居なら住むため、施設なら利用するためといった目的のためにまず作ら れ、純粋に見るために作られるわけではない。つまり純粋に何かを模範とした模倣や表現 とは言い難いだろう。

3.空間的な芸術と非空間的な芸術の差異

舞台芸術と造形芸術を空間的な芸術と位置づけ、そしてそれぞれに対応する非空間的な芸術を考えるとするなら、人による人の模倣/物による物の模倣という観点から、舞台芸術に対しては映画、造形芸術に対しては絵画がそれぞれ対応関係を示すだろう。舞台芸術、中でも演劇では、観賞者は舞台上での複数の人による演技の中から、自分で選択して好きに見ることができる。一方映画では、カメラのフレームの中に収められた空間しか見ることができず、観賞者の視野はカメラの動きによって決定される。さらに、どこを重視して見るかについても、映画においてはクロースアップやカメラの角度、照明の当て具合によって決められてしまう。演劇でもある登場人物にスポットライトを当てるという手法があるが、映画ほど観賞者の視点の選択の自由は拘束されていない。彫刻についてもやはり絵画と比べて視点の選択の自由度は高い。彫刻は前から、斜め下から、後ろから、自分が移動することによって可能な限り様々な角度から見ることができる。対して絵画では、作者によって見る角度は決められてしまっている。よって、空間的な芸術に関しては、非空間的な芸術と比べてその視点の選択の自由度は高いということがいえるだろう。またこの点に関して舞台芸術と彫刻を比べるなら、舞台芸術では客席に着いたら基本的にそこから動くことはできないので、彫刻の場合のように移動して違う角度から見るというようなことはできない。このことから、舞台芸術では見る位置の固定により彫刻よりも視点の選択の自由度は低いということになる。

4.時間の問題

空間について考えるにあたって、その対となる概念である時間について考えることも必要だろう。とりわけ演劇と彫刻について考えてみると、一見、他の芸術と比べて演劇も彫刻も共に空間的な要素が強いというように思われる。しかし演劇は言うまでもなく時間によって変化する人の動きを観賞するのであるし、彫刻を観賞するのにも時間的な持続がなければ、対象を満足のいくまでずっと観賞することはできない。しかしやはりこの時間の問題は、彫刻よりも演劇などの舞台芸術一般にとって非常に重要な問題となるだろう。そもそも演劇などの舞台芸術は総合芸術と呼ばれ、音楽や詩などの、いわゆる時間芸術を内包しているのである。特にオペラやミュージカル、舞踊は音楽があって成り立つものである。舞台芸術において時間の問題は、端的にいって作品に変化をもたらすものだといえるだろう。しかし変化するのは作品だけではない。では時間による変化の問題は観客に対してどのような作用をもたらすのか。それには二つのことがいえるだろう。第一に観客の〈飽き〉である。観客が舞台を、上演中常に一定の集中力をもって見ることは不可能といっていいだろう。またこれは映画にもいえるのだが、当然集中して見るところと、そうでないところがあり、集中できなくなったらやがて寝てしまうかもしれない。第二に観客の〈緊張〉である。例えば舞台での迫力のある演技や、感情表現などによって観客が一時的に非常な集中をすることがある。そして作品を見終わった後では、印象に残った部分とそうでない部分があり、印象に残った部分に関しては、あの場面のこういった演技がよかったなどと、作品を全体ではなく部分的に楽しむのである。故に舞台芸術においては、観客は作品を一時的な〈緊張〉による集中と〈飽き〉による弛緩の繰り返しによって、作品を部分の総和として観賞するのである。

5.空間的な芸術における作品と受容者の境界

芸術作品とその受容者を区切る境界はどこにあるのだろうか。とりわけ空間的な芸術に関してその問題はわかりやすい。何故なら物理的に作品と受容者の間に境界を定めることができるからだ。例えば舞台芸術なら舞台と観客席、(美術館に展示された)造形芸術なら作品と、鑑賞者用の通路というように、作品と受容者の然るべき位置は空間的に決められている。故に論理的に考えても作品を見る場合は、当然、受容者は作品と一定の距離を置かなければならないという考えに帰結するだろう。しかし作品と受容者との境界が曖昧になったり、或いは作品と受容者との物理的な距離がゼロになることは往々にしてある。例えば演劇における「客いじり」がそれである。客席から声をかけたり、客席に降りて観客に触ったり、また観客を舞台に上げたりするなどの手法である。造形芸術においては、例えば札幌の公園に作られた、見るだけではなく滑り台としても使うことのできる『ブラック・スライド・マントラ』という作品がある(cf.佐々木健一『美学への招待』139−40頁)。演劇の例でいえば、これは観客たる受容者が実際に作品に参加することにより、作品と受容者の区別が曖昧になることを意味し、『ブラック・スライド・マントラ』の例でいえば、 本来は視覚によって見ることのみを目的とした造形芸術が触覚を通して触ることにより作品と受容者との距離がゼロになり、さらには滑り台として遊ぶことにより、その作品の新たな受容の仕方が生まれる。これらの場合、受容者はその本来の受動的な役割を捨て、時に参加者となり、能動的な主体となる。また映画の例として、ジャン=リュック・ゴダール監督の『気狂いピエロ』では主人公が観客に向って話しかけるというシーンがある。この場合、作品と観客との物理的な接触はないにしろ、本来、一方的に見る主体であるはずの観客が、一時的に話しかけられる客体となるのである。とはいえやはりこういった問題は空間的な芸術において特に顕著なのではないだろうか。映画館では観客が一人もいなくても映画は勝手に上映されるが、演劇は客がいないと成り立たないという話を聞く。これは、演劇というものが役者だけでなく観客も一緒になってその舞台を作るという、舞台と客席を含めた全体の一体感が大事であるという考えからなのであろう。

6.表情/感情について

表情や感情の問題は、空間的な芸術と非空間的な芸術とでいかなる差異があるのか。まず映画と演劇について作者の側からいうならば、映画では役者が何らかの感情を表現するときに、1カットあるいは1シーンごとでその感情を持続させることが求められる。対して演劇では役者は、上演を通しての感情の持続が求められる。次に観賞者の側からいうならば、単純に考えれば映画よりも演劇の方が役者の感情というものは伝わりやすい。しかし演劇の場合それは席の位置に左右されるので、あまりに席が舞台から遠いと役者の表情を読み取ることは難しいし、役者の感情も伝わりにくいだろう。では彫刻や絵画や写真の場合の、観賞者側の感情の問題についてはどうなのか。これらの芸術は表現方法も、模倣の対象も様々である。もちろん、写真の方が対象の再現性がより高いから感情は伝わりやすいとも考えられるが、しかし人によってはピカソの『ゲルニカ』やミケランジェロの『ピエタ像』の方が感情をより喚起させられるというかもしれないので一概にはいえない。それに我々が通常感情を伝える対象も、感情を受けるのも人であるから、これらの〈物による物の模倣〉の場合、この問題を考えるのは難しい。では写真、絵画、彫刻における作者側の感情についてはどうか。作品に作者の感情や心理を反映させやすいのは、彫刻や写真よりも絵画だろう。例えばクロード・モネに代表される印象派は、事実を事実のまま描くのではなく、作者の主観によって見えた色を描くという特徴がある。この場合、当然対象を写実的に描くよりも、作者の主観的な感情や心理をより反映させやすいだろう。しかし写真の場合、記録芸術である故に現前する事実をそのまま記録するため、作者の主観を作品に反映させることは難しいだろう。また彫刻に関して色の問題を考えることは難しい。それ故に印象派のように作者の主観を色に反映させるということは、彫刻においては考えられない。ところで、ここでの表情/感情という主題を、舞台芸術である文楽(人形浄瑠璃)と関連させて考えてみると、とても面白い問題が見えてくる。文楽で使われる人形の顔は、人形遣いが顔のパーツを動かし表情を変化させることによってとても豊かな感情表現ができるのである。ここでもう一度模倣の問題に戻って考えてみると、この人形による人の表情の模倣は、〈物による人の模倣〉といえるのではないだろうか。今まで模倣を〈人による人の模倣〉と〈物による物の模倣〉というように両義的であるとして論じてきた。だがこの文楽の人形の感情表現の豊かさは、模倣に新たな可能性を与える。その点でこの問題は非常に興味深い。

7.結

芸術と空間がそれぞれに持ちうる問題を相互に関連させて論じるならば、その議論が及ぶ学問的な広がりや深さは果てしなくとりとめがないだろう。ここで取り上げた、例えば芸術における模倣の理論や、作品と受容者の境界、感情や表情、また芸術における時間の問題などは、芸術と空間に関する議論の諸問題のほんの一例に過ぎない。本稿におけるこれらの諸問題は、私が授業や読書をする中でひらめいたことや、個人的な芸術体験を参考にして提起されたものである。また私は芸術というものを考えるにあたって、美学(感性学)的な立場を拠りどころにしている。それは、美学という学問が、人間の感性を主題にするといいうその性格上、芸術との関係性が他の学問よりも密接だからである。しかし他の学問による芸術と空間に関する問題へのアプローチも十分に考えられる。以上により、一見、芸術において空間とは、論じる対象である芸術のヴァリエーションを限定してしまうように思われるが、しかし言うまでも無く、あらゆる芸術にとって空間の問題は直接的であれ間接的であれ何らかの形で関係しているのであり、非常に重要な問題であるということがここで再確認できる。

参考文献


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