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テキストアイコン夢と現実(第22回哲高レジュメ)

【編集註:深草によるレジュメです。html化にあたって一部を改変しました】

本稿では夢と現実との区別について論じ、その経験的区別を可能性において否定します。そしてこの前提を受け入れてもらった上で、哲学の新たな定義として「夢論としての哲学」を提案致します。 以下の議論の中では皆さんにも受け入れられると私が判断した諸前提を使用してゐますが、もしかしたら受け入れ難い前提や科学的研究によって既に否定されてゐる前提があるかもしれません。

なほ本稿の結論は上述の通りですが、この結論に至るまでの過程の記述においては、「夢」や「現実」といった語について常識的な用語法に仮託しておきます。

1.夢と現実との区別はいかなる点において可能か

夢は現実と区別して扱ふべきものであり、「夢は現実ではなく、現実は夢ではない」といふことが我々の通念となってゐる。しかし、現実と夢との間に経験的証拠に基づく明確な線引きができるわけでは必ずしもない。このことについてヨリ深く考察するために、以下に挙げる五つの命題について論じてみよう。なほこれらの命題は単なる思ひつきの羅列であり、決して網羅的なものとは言へない。夢での体験と現実での体験とを経験的に区別し得る他の指標があれば、是非提案して頂きたく思ふ。

以下では、これらの論点に即して見て行くが、夢と現実との区別について考へる際には現前する世界について「これは夢である」と判断できるための指標と「これは現実である」と判断できるための指標と二つものが見出されなくてはならない(もちろん二つの指標が一つの境界的数値として統一されたかたちで現はれることも考へ得る)。この点に留意しつつ、以下の記述に進むことにする。


第一に、「夢は白黒である」と証言する人々がゐる。しかし、白黒の夢も見たことがあるが、現実と同様にカラーの夢もみると証言する人々もゐる。また、私自身はカラーの夢しか見た記憶がない。現実においても所謂全色盲の人々が存在し、後天的な全色盲の人々もごくごく稀ではあるが存在することを考へれば、夢がカラーであることもあり、現実が白黒に見えることも可能性としてあり得ることになるだらう。例へば「ウィキペディア」によればミクロネシア連邦のピンゲラップ島では12人に1人が全色盲であると言はれてをり、この島におけるコミュニティでは夢に固有の特徴として「白黒である」ことを挙げるのは無意味であると推測される。

以上より、「【論点1】夢は白黒であり、現実はカラーである」は却下される。つまり、「この論点には反対する。よってこの論点が主張する区別は有効でない」といふのが結論である。


第二に、現実と異なり、「夢では『これは夢かもしれない/夢である』といふ自覚ができない」と述べる人々がゐる。例へば『事典 哲学の木』(講談社、2002)の「夢」の項の執筆者である廣瀬玲子氏は次のやうに書いてゐる(p.964、〔〕内は引用者註)。

夢とは疑えぬものである。「ひとたび眠りこんでしまうと、もはや私は自由意志で眼覚めることはできず、眼覚めを目標として見ることはできない。なにかをまえにして、それを夢とみなす力を私は失ってしまっている」(ポール・ヴァレリー「夢について」)。そこで語られること、そこで行われることに、おかしなことだという疑いをさしはさむ余地を、われわれは奪われてしまっているのだ。[……]〔デカルトの方法的懐疑を引用して〕疑わしいものを捨てていくと確実なものが残るはずである。しかし夢こそは、その中にいるかぎりは確実で疑いがないものなのだ。疑いがないことは目が覚めていることを保証しない。

この記述から読み取れることは、廣瀬氏やヴァレリーは夢において「これは夢か?」と懐疑することすらできないと考へてゐるといふことである。しかし、夢の中で「これは夢である」と自覚する明晰夢が報告されてゐるし、私自身も何度か明晰夢の経験を持ってゐるため、この主張には経験的な反例があると言へる(なほ自覚的な夢として「白昼夢」を入れてもいいかもしれないが、覚醒中に見る白昼夢を眠って見る夢と同一視していいかどうかが問題となるため、ここでは控へておく)。つまり、確かに「疑いがないことは目が覚めていることを保証しない」(この点でデカルトの論点は正しい)が、疑ひが在ることが目が覚めていることを保証するわけでもないのである。

以上より「【論点2】夢では「これは夢かもしれない/これは夢である」といふ自覚ができないが、現実にはそれが可能である」は却下される。つまり、「この論点には反対する。よってこの論点が主張する区別は有効でない」といふのが結論である。


第三に、「夢の内容は現実の内容を材料として構成される」といふ了解から、夢の内容は現実の内容を構成する諸要素の組合せの域を脱しないといふことが考へられる。しかし、もしこの一点だけが夢と現実とを区別してゐるとすれば、現実が必ずしも新しい要素を私たちに提供し続けてゐるわけではなく、或いは提供してゐるとしても私たちがそれに気づかない点で夢と同様であることになってしまふ。

例へばマンションなどの集合住宅では各部屋の構造・構成がよく似てゐるので、住人の中にはたまに階を間違へて「帰宅」してしまふ人がゐるさうである。もちろん違ふ階には違ふ住人が生活してゐるわけであるから、大抵誤りにはすぐに気づくのであらうが、誤りに気づくまでは普段とは異なる現実を普段と同じものであると見做してゐたことになる。つまり、現実では確かに夢で見たことのない新しい要素が出現し、恐らくは知覚されてゐるにも拘らず、先入観のために全く気づかずに平然と他人の家に入り込んでしまふといったことが起こり得る。従って今自分に立ち現はれてゐる世界があまりにも見慣れたものばかりで退屈極まりないからといって夢であるとは断定できないのである。

以上より、「【論点3】現実での経験内容の要素が夢に現はれる内容の要素に先行する」は仮に承認されたとしても、私たちが夢と現実を実際に区別しようとするには、部分的指標しか与へてくれないであらう。即ち、この論点を受け入れた上で「新しい要素」が見つかれば「現実」であると判断できるが、見つけられなければ判断はつけられないといふことである。つまり、「この論点には賛成する。しかし、自分で個別の夢を現実から区別できるといふ実践的価値は部分的にしかない」といふのが結論である。

なほこの論点については「新しい要素」とはそもそも何なのか、そんなものがあり得るのかといふ点が大きな問題として残ってゐる。


第四に、夢は入眠から覚醒への間に位置付けられてゐる。即ち、記憶の上では入眠体験の後に夢体験が配置され、夢体験の後に(大抵は入眠体験に対応する内容での)覚醒体験が配置される(もちろん夢を見ない場合はこの限りではない)。なほここで言ふ「入眠体験」とは「眠気を感じて布団に入ってゐた」といふやうな記憶に残る範囲での主観的な「眠ってもおかしくない状態」のことを指すことにしておく(入眠の瞬間は必ずしもハッキリと記憶されてはゐない。特に飲酒などによって入眠時の記憶を失ってゐる場合にこれは顕著である)。しかし、入眠体験も覚醒体験も夢の内容として報告されてをり、私自身も夢の中で覚醒体験を持ったことがある。といふことは夢の中で「眼が覚めた後の状態」を体験することもあり得るといふことであり、今「夢」から覚めて「現実」にこのテキストを読んでゐることも疑はしいことになる。即ち、この「現実」も数時間前(数十時間前の人もゐるかもしれない)の覚醒体験との関係で相対的に現実と規定されるに過ぎず、数分後にこの「現実」から目覚めてしまはないといふ保証はない。従って入眠体験や覚醒体験との前後関係のみによって夢と現実とを区別することはできないのである。

以上より、「【論点4】時間的に入眠から覚醒までの間に配置されるのが夢であり、それ以外の時間、即ち、入眠の前と覚醒の後に配置されるものが現実である」は必ずしも成り立たない。つまり、「この論点には反対する。よってこの論点が主張する区別は有効でない」といふのが結論である。


第五に、現実は夢との「往復」があっても一貫性を保つとされるのに対して、夢の内容は現実との「往復」で一貫性を破壊されてしまふといふ点が挙げられる。ここで言ふ「往復」とは先ほど述べた入眠体験と覚醒体験とを介して自分に現象して来る世界が切り替はるといふことを指す。即ち、現実といふ「物語」にはあまり大きな飛躍はなく、大抵は眠った場所で目覚めるといったカタチで入眠体験と覚醒体験との間は一貫した解釈が成り立つものである(この場合、身体の一貫性に基づいて私たちは睡眠の前後の自己同一性を解釈してゐる)。しかし、或る夜に見た夢とその次の日の夜に見た夢とでは一貫性がないことがほとんどである。

例へば一昨日の夢では日本の京都市街を散歩してゐたが、昨日の夢では火星でキャンプファイヤーに興じてゐるといった空間的に大きな飛躍のある事態も容易に想定できる。しかし、或る日の現実とその次の日の現実とが睡眠によって隔てられてゐる場合、二つの現実の間でこのやうに大きな飛躍のあることはほとんどないだらう(イスラム暦1428年現在の地球においては)。仮にあったとすれば、当然、

などの疑問が噴出し、まさにこのやうな不条理な記憶について「夢だったのではないか」と考へ始めることが予想される。

しかし、まづ一貫性がないから夢であるとは必ずしも言へない。一貫性のないやうに見える出来事に出会ったときにすべて「一貫性がないのは夢だからだ」と解釈してゐるのであれば、「私は現実逃避に陥ってゐた」とか「私は世の中の進歩についていけてゐなかった」と反省することもないであらう。このやうな反省の後では信じ難かった体験にも何らかの説明をつけて合理化がなされてゐるわけで、自分が一貫性を感じないことは必ず夢であることを示すわけではない。

次に、では一貫性が見出せれば現実であると言へるのかといふとさうでもない。例へば二度寝することによって「さっきまで見てゐた夢の続き」を見たことのある人は少なくないであらう。

以上より、「【論点5】現実で隔てられた二つの夢の間には一貫性がないが、睡眠で隔てられた二つの現実の間には一貫性がある」は必ずしも成り立たない。つまり、「この論点には反対する。よってこの論点が主張する区別は有効でない」といふのが結論である。


上記五つの論点を見てきた。これらの考察から言へることは自分自身で夢と現実とを相互に区別するための必然的かつ経験的な手がかりとしてこれらの論点を採用することはできない、といふことである。つまり、100%の方法はまだ見当たらない。とは言へ、実際には私たちは夢と現実を何らかの方法で区別してゐるわけで、その際には上記の論点を援用して区別する場合もあるだらう。確かにこれまでの自分の現実の記憶・記録と夢の記憶・記録を信頼し、さらに他の人々のそれをも信頼するのであれば、上記の区別法は(特にこの中から幾つかを組合せて使ふことによって)確率的に有効なものとなるだらう。

2.夢論としての哲学の再定義

夢と現実とを経験的証拠にもとづいて究極的・決定的に区別することはできない。即ち、経験科学では今のところ、「今この世界が夢である可能性」及び「今この世界が現実である可能性」のいづれかを排するやうな証拠を見出すことはできないといふのが、ここまでの結論である。経験科学は現象の諸連関を探るといふカタチで、仮言命題として「このやうな実験結果が出せる世界ではこのやうな法則が成り立つ」といった主張は可能であらうが、最終的にその世界が現実であるといふ判断を下すことができないために、その法則が当事者が直面する「今この世界」に対して適用可能であるかどうかは究極的には分からないのである。

また、素朴な立場からの反論として「脳を生理学的に解明することで夢現象も説明できる」といふ主張があるかもしれないが、脳と私たちの心とがどのやうな関係にあるかは「心の哲学(Mind of Philosophy)」などの分野で盛んに研究されつつも依然不明であり、少なくとも経験的証拠に基づく議論だけで決着がつくとは考へ難い。

夢についての経験科学の限界がこのやうなものであるとすれば、私たちはここから積極的な成果として「哲学の再定義」を引き出すことができる。

古来、「哲学」を定義する試みは盛んに行なはれて来たが、もし夢と現実との究極的区別、可能性においての区別ができないことを承認するのであれば、哲学を「いかなる世界においても通用する一般法則を研究する学」として再定義し、経験科学から区別することが可能であらう。つまり、哲学=夢論であり、しかもここにおいて夢と現実との悟性的区別は撤廃される。経験科学はこの世界が夢であるかどうかを決定できないが故に最後的な限界を持つが、しかし、夢論としての哲学はこの世界が夢であらうとなからうと通用する一般法則を見出せるものでなくてはならないと言へよう。このやうな再定義によってときには非常識の極みと罵られてきた哲学も、あたかも夢と現実とが逆転するやうにその価値付けを逆転させることができる。

以下、このやうな再定義によって「哲学」にもたらされる地平について記述してみよう。

例へば、過去に提出された哲学体系の読み直しとして、ウスラーはカント及びシェリングの哲学が夢についての研究と見做せることを指摘してゐる。シェリングについて言へば、彼は所謂「同一哲学」を企てた人であり、主観と客観とは究極的には同一の根を持つもので主観が客観を無限に産出してこの世界が成立してゐると主張した哲学者である。このやうな主張は常識から見れば全くバカげてゐるやうにも受け取れるが、もしこれを夢に関する主張として読み直すなら鮮やかにその価値付けは逆転し、そこに哲学史研究の新たな地平が見えて来ると言へるだらう。

また、横井直高氏の「バーチャル」論についても夢論として読み直すことができる。

第二回浜松哲学道場において検討された横井氏の説によれば、現実として了解されてゐるこの世界について、常にそれがバーチャルである可能性を拭ひ切れない。所謂「夢」の地点にゐるところの「この私」と所謂「現実」の地点にゐる「あの人」との他者的関係において、他者から私を問ひ直すこと、私の分身としてのバーチャルな私(夢の中の私)から他者を問ひ直して行くことが課題とされてゐる。

さらに夢として見られ得るものの拡大によって夢論としての哲学が語れるもの自体も拡大して行く可能性がある。例へば所謂「オタク文化」の隆盛と一般化に伴って「アニメ夢」を見たと証言する人々も現はれてをり、これはアニメ論・物語論としての哲学の地平をヨリ明確なカタチで開くものと言へるだらう。つまり、一般に虚構とされ、作者の思ふがままに構成できるとも考へられてゐるフィクションでさへ夢論としての哲学では法則的に取り扱ふことが要請されるといふことになるだらう。また、夢といふやうな不条理なものの研究が可能であるならば、これら創作世界・創作活動の法則的研究も可能でなければならない。

本稿では夢と現実との経験的区別を否定し、経験科学から明確に区別される「哲学」として、夢論としての哲学を提案してみた。

【参考文献】


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