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テキストアイコン時間、戦争、美しさ(第22回哲高レジュメ)

【編集註:当日議論されなかった部分については、一部割愛してあります。またhtmlの形式に合ふやうに改変した部分があります】

 <ある戦争>
   優しさは滅んだ
    美しさは死んだ
     陰惨と時間は残った
              −P.フェアブロ−
 <形而上学的>

   ペガサスを知っているか
   では、ペガサスが存在しないことを知っているか
   時間も同じようなことだ
              −R.クラスロー−

はじめに

以下の三つの提題は、関連性がなさそうに見えるが、今回は根底に関連するところがあるということを示すことが出来たように思える。それは第三幕で各人で納得いただければと思う。一切の思索は、断片的であってはならず、体系的に行われなければならない。これが私の知的美学である。

さて、出自を少し。「時間」に関しては、日々の発想メモなどをまとめたものを第四回哲学道場京都にて発表する機会を得、それに補足しながらまとめなおしたものである。「戦争」に関しては、第2回平和学研究会で発表した「暴力の抑止システムについて」及び京都学術工房で発表した二つの作品「成熟社会下における倫理」「武士道の現代的意義」を基にしている。そして「美しさ」については、神戸学術工房で発表した「美しさの誕生について」の中から、幾つかの部分をダイジェストした。

なお、冒頭のP.フェアブロ、R.クラスローは、共に虚在である。

第一幕 時間

第1点 時間と存在

11 時間概念の使用の分類

時間は、その使用において少なくとも以下の四つの異なる意味の総称である。

=表1===============================
                過去   現在    未来
A私的時間        記憶  自己意識      予想  =体験モード<線分>
B社会的時間   歴史  共通認識   予測  =言語モード<半直線>
C計測的時間   なし  単位の合計  なし  =使用モード<点、線分、直線>
D超越的時間  (全て認識を超越して存在する) =価値モード<パタン的軌跡>
====================================
11−1

表1の四者の関係は、BとCが相補的な関係にあり、Aはこの関係に従属する。Dは各人や各社会にとって選択的に存在する。

11−2

表1のBC間の関係は、前者が後者に対して第三項的に関係し、後者は前者に対して当事者的に関係する。

11−3

表1のABDには時間の方向性が存在する場合が多いが、Cには時間の方向性は存在しない。その意味で過去概念と未来概念は存在しない。

12 存在概念の使用の分類

存在とは、少なくとも以下の三つの異なる意味である。

=表2================================
実在 実証的=経験的に存在する 例:赤いバラ
可在 実在の可能性がある    例:青いバラ
虚在 実在せず、想像の賜である 例:超絶バラ人間Z
=====================================
12−1

表2には静態的な分類であるが、過去と未来の時系列を導入することができる。

====================================================================
実在した 例:恐竜                  実在するだろう 例:科学的予測 
可在した 例:旧石器人の脳外科手術  可在するだろう 例:ヒューリスティックな推測
虚在した 例:レムリア大陸          虚在するだろう 例:ベジータ
====================================================================
12−2

12−1とは逆に、表1に存在形態を与えるならば、ABCが虚在か実在、Dが可在であるといえる。

第2点 時間の生成と物象化

21

時間は、序数的事実の記憶を基数とみなして置き換えをなし、それを物象化した(=その存在することを社会的に慣れさせた)ものである。生成過程は、以下のように憶測する。

=======================================
その1 変化の関係性の把握
ある変化1からある変化2までの区分を特定する。
→t1からt2を「α1」とする。「α2」や「α3」も別に存在する。

その2 認識によるパタン化
その特定した区分を単位化(=等間隔化)し、他の類似の変化に適用できるようにする。
→個別の「α1」をパタン化(=みなし)し、一般的にαと決定する。

その3 計測尺度化
この単位化された尺度、α系列を実在とみなし、それに従って逆に事象を序列化する。通常は、数値化され、他の集団にも普及していく。
→αの空間化。
=======================================

第3点 補論

以下の補論を説明する。1は、超越的時間における未来というものは、物理学的には立証されないことなどを補足する。2は「時間とは何か」という素朴な時間論に関して、皮肉的ではあるが有用性を提示する。3は、私的時間の従属性を説明するためのものである。4は、参照までにまとめた、ある物理屋達から見た時間の方向性に関する分類と主張である。

補論1

ラプラスの魔的な決定論は、古典物理学的には、観測におけるエントロピー増大分により、予測情報を得るための観測自体が不可能であること、量子論的には、量子の位置と運動量(速度)を同時に正確に決定することは原理的に不可能(「位置の不確定と運動量の不確定の積は一定値以下にはならない」=不確定生成原理)である。

このため、現在科学的な価値観からは、未来は決定できない。現在と過去という区分と未来という区分が成立するとすれば、前二者と未来のそれぞれの存在形態は異なる。

さらに、時空に関しても例外(=時空の特異点であるブラックホール)を認めているため、現在という時間に関しても、少なくとも二種類が併存するということもできる。

補論2

生物学的リズム、心理的時間、社会的記憶、物理学的予測・・・異なる次元で様々に存在する事象を時間という総称で表現することは、たとえば変化という名の下に即時に感覚を共有できるために、機能的である。この機能性の故に「時間」という総称を使用する。

この便宜上の総称を、一括して疑問対象に置くことは、時間の下位分類の例示(物理的時間だとか、心理的な時間だとか)を除けば、無意味な作業である。それは命名対象に対して、「何か」と問うているようなもので、私はこれを「疑問詞の錯誤」と称する。

ただし、この無意味な作業も、パズル解きと同様の趣味としては社会的に有用であり、税金投入という愚行を除けば維持されてよい知的遺産である。

補論3 「今」という「たとえ」

第一信では、時間が<お約束>であることを主張しました。しかし、時間どころか、厳密には「今」でさえ、お約束なのです。この便ではそれを説明しましょう。

今、自分がみている目の前の景色。私たちはこの瞬間瞬間の最先端を、それぞれ「今」と意識し、そう呼んでいます。しかしこの<今という瞬間>というのは本当でしょうか?目の前の景色が視覚信号として脳に到達し、認識ができるまでには、若干の時間差があります。このうち、どちらが<瞬間>なのでしょうか。

まず、認識した瞬間だという方は、天体観測のことを考えて下さい。100万光年先の星々を観測し、認識した時点をもって<瞬間>というのは、おかしなことです。私たちが観測し、認識しているのは、100万年前の星々のはずです。こんなに前の状態をもって<今>というのは、今という言葉を便宜上、あるいは比喩的に用いているに過ぎないことになります。今とは、認識した瞬間だ、というのは、たとえなのです。

それでは、認識という我々の内側にあるものではなく、時間差を取り除いた対象の状態だ、としてみましょう。しかしこれもおかしな事になります。

まず、物質は素粒子から成り立っている。この素粒子の瞬間的な状態をもって、<今>というのだ・・・、理論上はともかく、<今>の意味をそのように強弁される方は少ないでしょう。というのも、それでは世の中の圧倒的大多数の人々は、今を全く理解し得ないという事態になります。つまり私たちは、目で見たり触ったり、という知覚ができるようなレベルで<今>と呼んでいるはずです。次に、私たちは、全宇宙規模で物事を見るわけではなく、自分の周囲の部分的な世界で<今>を語ります。世界がどのような法則に従って動いているか、とは別の大きく誤った(誤差が多い)見方を、<今>と称しているのです。このように、私たちが使用している<今>と、専門物理的な意味での、理論上の<今>は、大きく異なります。

<今>とは私たちの認識の外側にある、時間差を取り除いた対象の状態という主張は、一つの定義(お約束)にはなりますが、多くの人が抱いている<今>の解答にはなりません。仮に専門性を盾にしても、素粒子レベルの<今>、天文学上の<今>、これを専門家同士で一致させることは至難の業でしょう。

それでは、<今>とは何でしょうか。それに解答を与えるには、場合分けの作業(記憶としての今、知覚としての今、分析としての今、など)が必要になりますが、一ついえることは、<今>というのも実際に存在しているわけではなく、総称があるにすぎず、便宜上、<今>という用語が使われているだけなのです。

補論4 「最も本質的な時間は、宇宙的時間である」

弟2幕 戦争

第2幕の大まかな構成は、「戦争は絶対に悪い」という素朴な感覚が、平和維持にとって怪しく、しかも愚かであるということを主張することである。戦争回避には、第3点の「倫理から制度へ」というキーワードがメインの主張となる。第1幕とは全く接点を持たないように思われるかもしれないが、第1幕と弟2幕の思索作業がいったい何であったのか、その接点は、第3幕で明らかになるだろう。

第1点 戦争に関する基礎知識

第2点 戦争肯定論について

戦争は絶対悪だと考える人は多い。しかし、例外を指摘されると、それを認める人も多い。まずは、戦争を部分的に肯定する場合をいくつか挙げる。

11人道的介入

A国が弱小B国に対してを開始し、B国内ではA国軍による非人道的行為が日常化しており、B国首相が各方面へ救援を打電している。さて・・・

11−1 PKO

国連総会では、直ちに緊急総会を開いてPKOを組織してB国へ派遣、A国が非人道的行為をしないかどうかを見守った。

11−2 米軍

米軍は事実確認の後さっそくB国へ軍隊を出動させ、A国軍を一掃した。

11−3 国際警察

B国の依頼に基づき、国連はA国へ警察活動のために干渉した。

12正当防衛

A国がB国に核弾頭付ミサイルを撃ち込もうとしている。さて、以下の場合、B国の行為は許されるだろうか?

12−1 正当防衛

B国はA国のミサイルを発射前にミサイル基地を攻撃した。

12−2 過剰防衛

B国はA国のミサイル発射前に、A国内の全てのミサイル基地を攻撃した。

12−3 誤想防衛

実はA国は実験用ミサイルであったが、B国は、A国が打ち込んでくると思い、A国のミサイル基地を攻撃した。

13予防、報復、代理

13−1 予防

A国はB国にミサイルを撃ち込むための国民会議を行ったので、B国はA国を攻撃し、A国全土を占領した。

13−2 報復

A国はB国にミサイル2発を打ち込み、B国は1000人を超える犠牲者を出した。1ヶ月後、B国はA国を攻撃し、A国全土を占領した。

13−3 代理

A国がB国にミサイルを発射しようとしたとき、弱小国Bと友好関係にあったC国が、A国のミサイル基地を攻撃した。

第3点 倫理と制度

31 倫理の射程

31−1 倫理の定義

共同体でカリスマ独断、あるいは多数決的に決められた行動のうち一部が繰り返されて蓄積し、さらに世代間で継承されて慣習法(=違反には制裁がある)となり、行動指針として蓄積されたもの。

31−2 平和という倫理

現代の成熟社会において、平和を倫理によって達成しようという戦略は、愚かである。平和を維持する戦略は、教育と制度形成である。

31−3 倫理の限界
  1. 当事者間のみでしか有効ではない。制裁が共同体内でしか有効ではない。
    →ラーメンをズルズル食べるな!と西洋人にいわれる筋合いはない。
  2. 倫理規範が最適化されているという保障はない。歴史的に決定されているにすぎない。
    →「ラーメンをズルズル食べるな」には合理的な理由はない。
  3. 次世代の者が従わなければならない理由はない。社会変動の方が大きい場合がある。
    →西洋に和式ラーメン店が爆発的に増殖した!
  4. 他の共同体の慣習との優劣はつかない。慣習は相互に共存関係にあるのが望ましい。
    →ラーメン無音食いもラーメンズルズル食いもお互い理解し、尊重し合おう。
  5. 基本的に議論の題材に挙げることを許されない。感情的に説得するしかない。
    →「どうしてズルズルしたらダメなの」「うるさい!黙って食べろ!」

32 倫理から制度へ

32−1 制度の条件
  1. 合意の存在
  2. 成文法の存在
  3. 執行過程の存在(遵法者に対する特典付与や違反者に対する罰則強制)
32−2 具体的制度の設定

国際レベル

  1. 国際刑事裁判所(ICC)の設置(戦争犯罪には第三者が必ず断罪する)
  2. 戦時国際法改正(戦争という旧世紀の概念を廃止し、集団的暴力で定義しなおす)
  3. 赤十字的活動の強化(疾病者だけでなく、建物などの現状復旧まで手がける)

国内レベル

  1. 初等教育段階で平和学を義務づける(戦争の恐怖面を映像などを通じて教える)
  2. 各国、軍隊の1割程度を国際消防隊(=赤十字的活動を行う)として常時派遣する

第3幕 美しさ

これまでに時間論、戦争について哲学的な思索を行った。最後は、美しさである。この三者を考えることで、私のいう価値系列の全ての領域を、それぞれ一つづつ問題設定をしながら、各論的に考えてみたことになる。

問題の対象をどこに設定するかで、解答の仕方は異なる。巷の議論では、多くの思索が、無用にも三者混在状態になっているような気がするのは私だけだろうか。

時間論は、善悪や好悪で決定されてはならない。戦争は、真偽や好悪で決定されてはならない。そして美しさは、正しいとか、良い芸術だとか、そういうもので決定されてはならない。学校から、企業から、ずっとずっと埋め込まれてきた教養としての美しさ、美的偏見を脱し、自分の感性を絶対視しよう。

第1点 価値の三次元

美しさとは、以下の価値系のうち、好悪系に属する。

===================================
A真偽系 例:時間は存在するか
 論理的判断が基礎。普遍的使用を目的。他の真偽系価値と競争関係。
B善悪系 例:戦争の是非
 歴史的多数決が基礎。共同体内使用に止まる。他の善悪系価値とは共存可能。
C好悪系 例:私の右耳は美しいか
 個人的感情判断が基礎。他の好悪系価値とは一般に共存関係にある。
===================================

第2点 美しさの起源

21 美しさとは何か

21−1 美しさとは、時間論で展開したと同じく複合概念の総称である
21−2 美しさの起源とは、リリーサー的なものを除けば、戦慄とその学習にある

22 美しさとは別に「美しさの理論」ができる

22−1 美学の愚かしさと文芸批評
22−2 美しさの優劣基準としての解釈可能性論

今回の参考文献(過去に参考文献としたものを除く)

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