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テキストアイコン神の存在証明(第07回京哲レジュメ)

Alvin Plantinga (1932-) の『神と自由と悪と』(星川啓慈訳、勁草書房、1995)から、アンセルムスの神の存在証明(存在論的論証の典型とされる)の検討を紹介します。

プランティンガの結論は「神の存在証明は有神論が真であることを立証してゐるわけではないが、有神論の合理的受容可能性を立証してゐる」といふ護教的なものです。

アンセルムスの証明

プランティンガは中世の神学者アンセルムス(1033-1109)による神の存在証明を帰謬法の論証と解釈し、以下のやうに要点をまとめてゐます 。

まづ定義として、「神」≡「それより偉大なものが考えられ得ない存在者」とします。

しかし、この(6)は自己矛盾に陥ってゐます。従って次の結論に至ります。

さて、論理学の真理でもなく数学の真理でもないが必然的に真である諸命題 があり、これを「広義の論理的必然性」と呼ぶとき、或る命題pについて、その否定が広い論理的意味において必然的に真でない場合のみ、広い論理的意味において可能的に真であるとしませう 。

そしてアンセルムスが「或る事態を考へることができる」と述べてゐるのを、プランティンガは「或る事態が広い論理的意味で可能である」=「それが成立する可能世界が存在する」と解釈し、上の要点の一部を次のやうに書き換へます。

ガウニロの反論

アンセルムスと同時代人で修道僧のガウニロは「存在し得る最も素晴らしい島」の例を挙げてアンセルムスの証明に反論を試みてゐます。しかし、島の素晴らしさに寄与するものには量的にも質的にも本質的極限(それよりも優れてそれであるものがあるのは不可能な限度)がなく、この点でガウニロの反論は失敗してゐるとプランティンガは述べます。

だが同様に最高の偉大さにも本質的極限はないかもしれない、とプランティンガはアンセルムスの論証が弱点を持つ可能性を示唆し、しかしながらこれを保留して次の反論の検討に進んで行きます。

カントの反論

プランティンガによれば、存在論的論証に対し、カント(1724-1804)は次のやうに述べてゐるやうです。

カントの主張は「物事を定義して存在させることはできない」といふ主張だとプランティンガは解釈し、アンセルムスはそのやうな手順(概念に存在といふ規定を付け加へて論証するやり方)を踏んでゐないとして、カントの論点はアンセルムスの論証に対する反論にはなってゐないと述べます。

可能世界論を援用した存在論的論証の言ひ換へ

プランティンガは可能世界論を援用して次のやうに言ひ換へます。

しかしながら、

この論証には次の問題点がある、とプランティンガは述べます。

存在論的論証の再編

或る世界Wにおける存在者の卓越性はそれがWで持つ諸属性に依存するものであり、一方で偉大さはこれらの属性に加へ、他の諸世界でその存在者がどのやうであるかにも依存するといふことにしませう。すると或る存在者が所与の世界Wで最大限の偉大さを持つといふことは、それが全ての可能世界において最大限の卓越性を持ってゐるといふことになります。

これらを踏まへてプランティンガは次のやうに書き換へます。

ここで(27)と(28)を定義と見做せば、この論証の前提は唯一(25)のみであることになります。

そして、ここで再び問題点Aを回避するカタチで、次のやうに論証を言ひ換へられるとプランティンガは言ひます。「さまざまな可能世界において存在したりしなかったりする可能存在者について語るかわりに、諸属性とそれらが具現されたりされなかったりする諸世界について語ることができよう。……もちろん、一角獣であるという属性と同じく、問題となっている属性は存在する。それは、馬性という属性(馬であるという属性)と同様に存在するまったく正当な属性である」 。

ここから、次の命題はあらゆる世界において論理的に不可能であることが帰結します。

プランティンガはこれだけから神の存在証明に成功したとは言へないとするものの、この推論の妥当性を認めることによって「最大限に偉大な存在者の存在は可能である」といふ前提は不合理なものでないことを主張します。

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