渋谷克美「抽象と直知――オッカムの直知理論――」(『中世哲学を学ぶ人のために』(世界思想社、2005)所収)から、渋谷解釈によるオッカムの直知理論を祖述します(以下、オッカムの立場から述べます)。
私たちの知性は同一の対象に対して、種において異なる二通りの知を持つことができる。一つは「直知」であり、もう一つは「抽象知」である。
例へば、私たちは目前のソクラテスを見て、「ソクラテス」と「白」といふ知を把握し、それらの知の力によって「ソクラテスは白い」といふ明証的認識を持てる。この場合はこのやうな明証的な命題の認識の原因として、その命題を構成する語「ソクラテス」と「白」についてのシンプルな知(直知)が成立してゐる。これらの直知の力によって、私たちは眼の前のソクラテスが今ここに白いものとして存在すると判断できるのである。
しかし、一方で私たちが「ソクラテスは白い」と想像するに過ぎない場合、私たちはやはり「ソクラテス」と「白」について知ってはゐるが、それらの力によってソクラテスが今ここに白いものとして存在してゐるとは判断できない。この場合の「ソクラテス」や「白」は抽象知なのである。
直知と抽象知とは種において異なる。なぜなら、「結果が種において異なる⇒それらの原因は種において異なる」からである。「明証的認識を持てる」といふ結果と「明証的認識を持てない」といふ結果とは異なるから、それらの原因である直知と抽象知とも種において異なるのである。
直知が原因となって起こる明証的認識は次の三条件を満たすものである。
「私は見てゐる」といふ命題について、私は明証的に肯定判断を下せる。この肯定判断は見るといふ自己の認識活動=直知を直知認識することから生じる。このメタ直知認識(直知の直知)が在るが故に、ベタ認識が直知か抽象知かを判断できるのである。直知される直知を直知A、直知の直知を直知Bと表記する。
チャトン(オッカムの同僚)はこの主張に対し、直知Aはそれ自身で充分であり、直知Bを措定する必要はないと反論する。といふのも、彼によれば「私は石を見てゐる」といふ命題が指す事柄に肯定判断を下すのが直知Aなら彼の主張に一致するし、直知Bであるならば、それが明証的認識であるためにはさらに直知C、直知Dなどが必要になり無限進行に陥ることになるからである。
これに答へれば、命題「私は石を見てゐる」が指示する事柄に対する肯定判断は直知Bによって行なはれるのだが、しかし、そこから無限進行が導かれることはないといふことになる。無限進行は自然本性的にあり得ないのであり、それ自体は直知されない或る直知においてストップするのだ。
この回答に対し、チャトンはさらに反問する。彼曰く:
直知認識の働きによって、(一)私は自分がこの石を知性認識していることを確信するのか。あるいは、(二)私は自分が知性認識していることを確信するだけであって、この石を知性認識しているのか否かを直知認識の働きによって確信するわけではないのか。第一であると言うことはできない(『命題集講義』序論第二問題第五項、強調は省略)
これに答へれば、第二である。私たちは直知の直知によって明証的認識の確信に至るが、しかし、自分が今他のどれでもないこの石を知性認識してゐることについては、煙から火の存在を知る場合と同様な、結果から原因へと向かふ推論が必要である。
即ち、次のやうな推論である。