哲学道場トップページに戻る

テキストアイコンテーマ「善悪」(第12回京哲レジュメ)

【編集註:めるろ〜さんが発表で使用したレジュメです。htmlの形式に合ふやうに一部句読点など改変した部分があります】

緒論とお詫び

テーマを絞るべきでしたが、いろんな角度からの批判を予想し、 大きなテーマにしました。

しかし、読むべき本を時間の関係で読み直しが出来ていないので、統一感の無いモノになりました。

末尾に参考書を挙げておきますので、深く知りたい方はそちらの本までどうぞ。

本日は寝不足と過労により、どれだけ、話せるか分かりません。 そして、個別の話しになるのを出来るだけ避けたいので、哲学者の個人名に拠るものを記載し、その他の哲学者などの名前を禁止したいと思います。

問題は、内容の整理であり、哲学者の言説の発表および討論ではないので、ここに出ている、プラトン、ヘーゲル、ルソー、ベンサム、ミル、フッサール、メルロ・ポンティ、M・シェラー、ピアジェ、以外を禁止したいと思います。

しかし、どうしてもという追加は?

僕も勉強中なので、答えられない、おかしい、などの批判は甘んじて受けます。

その時はご説明をお願い致します。

『「自分」と「他人」をどう見るか』 滝浦静雄著、NHKブックスより、多くをとりました。ウイキもとりました。

合っているか合っていないかより、議論の題材として、引用しました。

平成19年3月4日 京都哲学道場にて 発表者 めるろ〜


定義 "善というのは、誰かがなした行為に関しての判断の中で、 <良い>と判断されるものである。"

ヘーゲルにおける道徳と倫理

「ヘーゲルでは、良心に従う個人的主観的な<道徳性>と家族・市民社会・国家に体現される。<社会的倫理としての人倫>とに区別される。」

ということは、道徳は、自己に由来し、倫理は、公共性に由来する道徳ということになりますね。

判断する始めは、自己であるので混同しがちですが、少し違いますね。

1.善悪とはどういう判断基準か

2.義務

プラトンのイデア論

イデアとは最高度に抽象的な完全不滅の真実の実在的存在であり、感覚的事物はその影であるとする。イデアが存在しているのがイデア界(本質界)で、その陰が投影されているのがわれわれ人間の住む現実界となる。

例えば、現実の世界に、円形をした物はたくさん存在するが、いずれも完全な円ではないし円そのものでもない。しかし、これらの円の背後には永遠不変で、完璧、かつ抽象的な円のひな型であるイデアがあるとする。また、人間が花を見て美しいと感じるのは「美」というイデアが実在しており、個別の花に「美」のイデアが分有されているからである。ソクラテスとアリストテレスは違う存在であるが、共に「人間」のイデアを分有している。

カントの定言命法

「汝の意志の格率(Maxime)がつねに普遍的立法の原理として妥当しえるように行為せよ(sollen)」(定言命法)。カントはこの定言命法が自由(Freiheit)の表明であるという。

格率の説明 "行為の個人的主観的規則"

定言命法は、無条件に「・・・せよ。」と命じる絶対的命法。

「・・・せよ。」と、それは義務であると。

ルソーの「エミール」より、

「良心よ! あぁ良心よ!この崇高な本能、永遠にこだまする、天からの声、知性をもって、自由な存在へと導く、道案内 神に近い存在、間違いを絶対犯さない審判者、お前こそが、人間の本性を超える事を可能にし、倫理を作り出しているではないか、、、お前抜きにしては、私は自分を獣以上に高める事は出来ない。規範や規律を守れぬ悟性、原理を持たぬ理性の助けにより、過ち、誤信、誤審の世界を彷徨い焦るばかりではないか・・・。そのような悲しい特権だけを与えられているのである。」(訳は、Sarahchanさん)

良心に従って、行為をすると良いことになるのか

功利主義

功利主義においては幸福は数量で表すことができると仮定される。ベンサムは快楽・苦痛を量的に勘定できるものであるとする量的快楽主義を考えたが、J.S.ミルは快苦には単なる量には還元できない質的差異があると主張し質的快楽主義を唱えた。

最大多数の最大幸福が功利主義のスローガンであるが、この幸福を快楽と苦痛との差し引きの総計とする。快楽主義型(幸福主義型)功利主義と選好の充足とするかで、と選好充足型功利主義(選好功利主義)とに分かれる。

<現象学における倫理>

滝浦静雄著『「自分」と「他人」をどう見るか』より

フッサールにおける他我

「私は他人を、もし私がそこに行きそこにいたならば、私も同じように持つであろう様な空間的現出様式を持つものとして統覚する。」

他我論の考察とは、

  1. 「われわれは他人に関して名のを理解することが出来、また何を理解することが出来ないのか」という問い。これは他人のすべてが我がことのように分かり過ぎるならば他人はもはや<他>我ではなくなっている。
  2. 「他人が痛がっていることに対して他人が痛がっていることは分かるが、その痛みを自分の傷みとして知ることは出来ない。・・・そのような言い回しのなかで、われわれは本当のところ何を了得しているのかまだ明らかではないし、ましてやそうして他我についての理解可能と理解不可能が何によるのかは、まだ何ら 明らかにされていない。」

<では、自他の互換性がどのように為されるか。>

ピアジェの実験結果で見てみると。

自分の子供に「私の鼻はどれ?」と聞いてみると、子供は、自分の鼻を指すようです。

自分を「私」という語で認識しているので、会話の上で、その言葉が指すものを理解するより、「私」という語を優先させている。(この時点では、互換性が為されていない。)

日本でも日常会話で、僕が、「おっさんが言うと・・・・。」というと、他のおっさんを探さずに、僕の事だと理解して話が進みますね。既に他我が成立している証拠ですね。

また、子供が自分の名前を会話に入れて話すのは、自分の存在を知らしめるのに使っていると思うのですね。既に知っているのに使うのは、強調というべきですね。

滝浦静雄著より

日本語で「そこ」と呼びうる為には私に意識は自分の居る場所からたち出て、彼のいる「ここ」側に身を映すことが出来なければならない。

フッサールは、一般に意識の「志向性」と呼んだ。

我我が他人を他人として理解できるというのも原理的には同じことであって、私が相手の言う「私」の意味を理解出来るのは私が話者として振舞っている彼の立場に身をおいてみることが出来るからなのである。

フッサールは、愛するということは「他人のうちに自らを失うこと」、「他人のうちで生きること」だからである。

フッサールは、「愛のない生はなく、あらゆる生は、愛の意識、愛の合致に伴われて始めて意識的なものになる」とさえ言っている。(言い過ぎか・・・。)

動物について行う、「目がある」とか「歩いている」とかなどという基本的な表現は、「人間理解の迂路」を通って為されたものであろう。・・・そのようなやり方が常に有効だとは限らないという事実は否定できないにしても、だからといって、行動主義的理解だけで終始一貫していることも現実には不可能なのである。

実際に人間からの出発が完全に禁じられたとしたら、われわれはどこから出発すべきなのだろうか。

ここで、フッサールが考えている「類比」は、殆ど感覚ないし知覚といった意識の低層で働いている類比であって、通常の意味の「類推」ではない。

これを、メルローポンティの言葉でいれば、自他の間で行われる「体位の受胎」とも言えるものである。(例えばあくびの伝染)

しかし、実際に「そこ」の地点に移ってしまえば、私にとっての「ここ」になってしまい、私が「そこ」といった限りの「そこ」に移ったとはいえないからである。

M・シェラーでの倫理

カントの場合、殺人において殺人犯は、死ぬ主体ないし殺す主体に自他の区別なく、(定言命令が)そのような議論の可能性は一切封じられてしまう。

これは、カントが何よりも人間を「理性的存在者」として捉えたことと無関係ではないと思われる。

M・シェラーはそれに対して、次のような指摘をしている。

「<或るもの>が理性活動の主体だという事実は・・・・具体的諸人格、例えばすべての人間に一様であり、すべての人間において同一なものとして帰属して」おり、したがって人間というだけで「人格」だというだけで「以後、全く区別がない」ことになるのだ、と。

ということは、「理性人格」を捉える限り、「個性的人格」という言い方さえ成り立たない。

「すべての有限人格は個体であり、しかも人格そのものとしてそうである」はずなのに、理性にはその個体性が欠けている。

<まとめ>

そこで、一般的に行為において、善と悪の境目は、「自分の行為が良い行為か悪い行為かではなく、その行為のなされた他者が善悪を決める。」これは真か。

男女関係の内で、その行為がいいか悪いかを決めること

ボランティアでの行為の善悪は、その行為が相手にとっていい行為で無ければ、ボランティアで相手を救ったとはいい難いのではないか。

この二つの例は、ある程度までの許容を超えると、やはり、他者が善悪を決めることになると思うのですね。

相手のためになるという思いでした行為が、行為をなした時点で善と成されない、いやそういう気持ちで行った全ての行為が善ではないという事態は、納得行かないものでしょう。

しかしながら、行為には、必ず、相手(他者)の価値判断が加わり、そこで始めて、善悪が決められるということなんですね。

ちょうど、賂を受け取らない首長がうまく回らないことと同じで、どれだけ公平に物事を扱っても、必ずしも、全ての人に善とは限らない。

今回の哲学道場で発表に使った本

【編集註:めるろ〜さんから参考文献について資料頂きましたので以下に掲載します】

他の辞書、事典類、哲学史類、「現代思想」青土社の特集類も 参考にしております。


inserted by FC2 system