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大阪哲学道場(大哲)の報告
2013年
- 第18回「中井久夫-寛解過程から見る人間の抑制機能について」(3月17日)
[各人の感想]
【横山さん】
はじ銀さん、発表お疲れさまでした。
精神科の話と哲学がどう繋がるのかと実は訝っていたのですが、がっちりと認識論の話になって、とても面白かったです。
中井のいう寛解過程とはじ銀さんのいう対象の認識過程が、結構うまくシンクロしていると思いました。或る病気の過程を、カントのいう超越論的認識論のような論説に結び付けたアクロバットにも感服しました。
ただ、僕にははじ銀さんの説が、カントの説よりも説得力のあるものには見えず、捉え方の基盤が怪しいような気もしました。
「言語化される以前の本当の対象がある」そして「認識に時間的過程がある」とするのなら、はじ銀さんの認識過程説は、謂わば「電子存在説」のような物理的に検証可能な認識論でなければならないと思います。なので、「対象は語ることができない」というメタ認識論には文法的になりえないと。
そして、「対象は語ることができない」と言うのであれば、「言語化される以前の本当の対象があ」って「認識に時間的過程がある」などということは言えないと。
そのような混乱があったように感じました。
しかし、これを再度、整理して考えてみて、寛解過程と認識過程とを、検証可能な物理的(或いは心理学的)なアイデアとして捉えてみると、単なる比喩としてのシンクロではなく、「本質的」な類似性があるような気もしてきて、すごく興味深かったです。
【ウラサキさん】
感想です。
やはり中井久夫と情報一元論との関連は脆弱すぎましたね。
え、1月2日の思い付きですか?
それより、はじ銀さんの思い入れが強過ぎて、
今にも急性期に突入するのではないかと気が気ではありませんでした。(^。^;)
やはり情報一元論は中井久夫やドグラ・マグラとは切り離して、
独立に発表された方が良いのではないかと思いました。
最後、深草さんのいつもの例え話は、
社会言語学的的陰影(connotation)の強過ぎる名詞「お祈り」を使用されてたので、
どうもあまりピンと来ませんでした。
結局、「社交辞令」みたいなものを意味していたのでしょうか?
「リア充」な奴ってみんな「お祈り」やってる、ってことなの?
【深草さん】
はじ銀さんによる発表内容は、大雑把に申し上げると、統合失調症が寛解する過程についての研究を紹介し、その段階が発表者の持論である「情報一元論」に立脚して認知過程を分析する際にも適用できる、ということでした。ただし、深草には正反対の洞察をつなげようとしている印象がありました。どうしてか?というと、一方では、この研究をなされた中井久夫氏がヒューマニズムやコミュニケーション、文学的な意味を重視していて反唯物論的、反還元主義的なのに、他方で発表者の方は「すべては『情報』だ」という還元主義的な「情報一元論」の立場をキープしていたからです。
強いて言えば、中井氏も記述の方向性(傾き)としては還元主義・客観主義へと妥協している(個性を捨象してグラフや一般論として提出されている)ので、そこが「情報一元論」とのかろうじての接点になったのかなあと想像します。
発表者の方の中心的な関心を示す「質問」は何だろう?と考えると、「私たちはどのように世界を理解しているか?」だと深草は捉えます。ただこの質問やそれに対する回答をうまく表現するためには、最低でも以下の四分割ぐらいはしてから、整理整頓してみる提案が有効かもしれないと後から考えました。
1.「私はどのように世界を理解しているか?」(文学または観念論の問題)
2.「日本語話者はどのように世界を理解しているか?」(言語学または言語哲学の問題)
3.「人間はどのように世界を理解しているか?」(心理学または心理主義の問題)
4.「ヒトはどのように世界を理解しているか?」(生理学または行動主義の問題)
【ケンイチさん】
統合失調症の寛解過程が、人間がモノを認識するときの過程にということで、一見無関係な精神医学を哲学的な主張に結びつた着眼点は面白かったし一 定の説得力を感じるものだった。
ただ、認識の単位とは何かであるとか認識の過程は時間的なものなのか、時間的なら一方向にのみ進むものなのかといった細部が詰められておらず曖昧 に残ってしまったのは残念だった。これは、はじ銀さんが理性的に信ていることと、直感的に信じたがってしまっていることが乖離しているのが原因 ではないか、という意見は本人にも何度か言った通りだ。
特に、単位的なものあるいはイデア的な実体が存在することを前提してしまう西洋的(?)な思考体系の弊害がよく見て取れる議論だなぁと私は(正直 この点には内心うんざりしながら)思っていた。
言葉やルールの適用範囲を正しく扱いましょうという私の主張についてはいつも通りなので、略。
【福岡さん】
予習がてらに最終講義を読んでいて、統合失調症の症状としての「自由度の低下」「無理にでも因果律を以て理解しようとする」「乱数発生ができない」などを知り、このような意識のあり方から統合失調症と哲学を結びつけるものと予想していたので、発表の内容は目から鱗でした。
統合失調症の寛解過程と人の認識過程を関連付けるところもさるものながら、急性期の「睡眠とも覚醒とも違う第三の状態」を認識の抑制機能の欠損として捉えた箇所がとても興味深かったです。
会場では時間の扱いや「ある」の使用方法が問題となりましたが、個人的には両者とも概念関係を整理すれば克服可能ではないかと思っています。
寛解過程と認識過程をぴったり一致させて説明することが可能ならより面白くなると思うのですが、統合失調症の経過が決して一様ではなく、また中井先生の分類も万人が共有できるものではないというこの疾患特有の扱いにくさが壁になるようで、両者の関連が参考程度に留まってしまうのが残念でした。
- 第17回「神−いかに信じうるか−」(2月17日)
[各人の感想]
【ケンイチさん】
今回は、神を信じるということについての議論……と思いきやどちらかと言うと宗教の効能や弊害に関する議論が盛り上がっていた。あるいは宗教抜き で社会を運用できるのかと。
私の立場は、例会の場でも表明した通り、宗教的な道徳や規範は可塑性・検証可能性に欠けるので、より柔軟で合理的な科学的思考による社会運用を目 指していくべきではないかというものだ。宗教の教義も時代に合わせて変わるという反論もあったが、そもそも考えずに信じるということが宗教の本質 (?)ではないかと、私は思っているのでその反論にはズレを感じたりもした。いわば、問題は教義の可塑性というより教義を信じるときに、ちゃんと 合理的に考えて選んだのかという点ではないだろうか。一方で、そこまで人々は賢くないという反論は、現状まったくもってその通りで、実現していな いからこそ「目指すべき」と私は言いたい。
宗教の効能と弊害に関する議論は、それはそれで非常に実りあるものだったと思うが、ふとこんなことを思った。
もし、議論を尽くした果てに宗教を採用することが合理的であると判断された場合、では皆が神を信じることが出来るようになるのか? 逆を言えば宗 教を排除すべきと判断された場合に宗教者に信仰を捨てさせることが出来るのかということだ。つまり、我々個人や社会として宗教にどういった態度を取るかは議論で決められるとしても、究極的に信仰を持つか否かはそれらと無関係な個人の選択 の域にとどまるのではないか。そうであれば、夫さんが迷っているような「どうすれば信じられるのか」といった問いに答えを示すことは出来ないと思 う。
そういう意味で、何かを信じるとはどういう事か?あるいは疑うとはどういう事かなどという議論は発展させたかった気もするが、今回の一連の議論は 夫さんの迷いを晴らす役に立ったのだろうか……。
【はじ銀】
本日の例会はキリスト教から出発して宗教一般に行き、コミュニティまで広がった、非常に多様な面を持つ会になったと思います。
それだけ宗教というものが未だに現代の価値観にも生き残っていると言うことだと思いました。
主に道徳の所で話が紛糾したのは、宗教が政治問題から個人間の問題、また前半に出た科学と宗教との関係性についても、問題になってくる、宗教を語る上で避けて通れない問題であり、哲学的に考えていく場合に必然的に浮かび上がる項目であったからだと思います。
広範に存在する問題の中から皆が我先にと取り出してきて議論し合う、非常に活発な会になり楽しかったです。
個人的には「強導権」の問題についてもう少し掘り下げたかったです。
以前話題に上ったことがありましたが、キリスト教信者向け(しかも子ども向け)科学本は創造説をベースに書かれている、などは明らかに宗教の越権行為であると思います(これも法王が見たら何というかはわかりませんが)。科学以外の分野例えば政治についても「強導権」の問題はあると思います。しかし、科学以外の分野についての強導権については、強の多くの時間が実はこの問題を語っていたようにも思われます。
宗教とはそこに加入すれば個人と個人の行為に価値を、また判断基準に利用出来る価値観を与えてくれるコミュニティという定義はある程度妥当なのでは無いかと思います。
それを踏まえて、今日の話の中で出てきた宗教が必要とされなくなる時、とは。人は帰属意識が無いと生きていけず、それを求めて宗教に縋る人は、今はネットがあるのでこれまでの時代よりコミュニティが作られやすいので、そういうところにいくのかと。しかし、「どうしようもない」人は既存の宗教のような非常に分かりやすい形の所に行くのかと思います。ただ、こういう場合は宗教が心理療法の役割を果たしているので、そちらに行って貰うのが時代に即しているかな、と思います。
>夫さん
発表お疲れ様でした。楽しい時間を有難う御座いました。
【ウラサキさん】
感想です。
参加人数も多く、しかも初参加の方々も積極的に発言されていて、非常に活発な会になったと思います。
政治・宗教ネタは好きな話題でしたので、十分楽しめたのですが、参加者の殆んど(全員?)が無神論の立場であり、有神論者の意見・反論が聴けなかったのが残念でした。
まあ、信仰を持つ方がこういう場に来るのはリスク多くして、メリットは少なそうですから止むを得ないことでしょう。
あと、テーマを少し広く設定し過ぎたせいで、議論が拡散しがちであったのがマイナスかも知れません。
勿論、フロアから散々茶々を入れていた私自身の責任でもあります。
「いかに信じうるか」というテーマ設定をしたのであれば、もう少し宗教心理学的なアプローチに絞り、キリスト教の教義や聖書の解説などはいっそのことカットした方が良かったと思います。
又、配布資料では、ドーキンスの著書のまとめと、夫さん自身のコメントが混在していて少し分かりづらい所がありました。
あと他の方の発表の際も感じたことですが、レジュメに書いてある文章をそのまま音読なさるのは、時間の無駄のように思えてあまり感心しません。
強調したい箇所の指摘にとどめるか、別の言葉でまとめて表現すべきでしょう。
宗教心や超自然的な存在を求めてしまうのは人類の本能みたいなものでしょうから、夫さんの迷いも、ある意味自然なものであろうと思います。
ま、われわれは哲学を学び理性を鍛えることによって、その誘惑に打ち勝っていけることを目指しましょう。
【深草さん】
今回の例会は「信仰はいかにして可能か?」という主題で行われるものと期待していましたが、実際には一言でいって「こんな思想は嫌だ」という意見を言い合うことにほぼ終始するという無残な結果だったと感じます。哲学はおろか神学・教学についての考察もほとんどありませんでした。
知識の有無とは関係なく、「この生にとって信仰(無根拠な常識)はいかなる意味を持っているか?」という当事者意識や「彼ら(彼岸)はいったい何者なのか? 彼らを理解するとはいかなることか?」といった他者論に向かうことはできたと思うのですが、哲学的でも宗教的でもない単なる既成事実の羅列で満足を憶えることは他の場所でもできたと思うのでもったいなかったと思います。
あるいは発表者の方の「迷い」にもっと焦点を当てて生きる意味の供給源について考えてもよかったのではと思いました。
【IRONMANさん】
感想送ります。
何らかの人知を超えた存在への信仰を持つ方は特にいらっしゃらなかったようで、怪力乱神(漢字あってますよね?)への期待は私が一番強いのかもしれないと思いながら参加した。
確かにみなさんは「神」のように明確に名付けられる対象への「信仰」はお持ちではなかったが、毎度ながらの激しい自己主張の背後には何らかの「確信」があることは明確である。
ある種の信仰は「狂信」と呼ばれるが、前回のJ.Jさんの感想にもあったように、我々のこの集まりでさらけだされる各人の確信も、それを持たない者の視点にたてば十分に「イカれた」ものになるだろう、と感じた。
それを読み解く上で神学がこれまでに蓄積してきた思考は、現代においても、そして「信仰」とは呼ばれないような精神活動に対しても、有効な視点を提供してくれるものかもしれないと感じた。
何かを「確信」することと、特定の存在者を「信仰」することとの違い、なんであれ「信じる」という行為が成立する仕組みを明らかにしたいと思った。
「いかに信じうるか?」というこれまで私には問う必然性や実感のなかった問いが、己のものになった、という点では有意義な例会でした。
【J・Jさん】
2月哲学道場大阪
11人居た。12人、13人になり、12人になった。
レジュメは広い範囲をまとめ、わかりやすい。ごくろうさんでした。
はじめにキリスト教について1時間ほど話し合った、知ることは悪、等。やはりだめな迷惑なものだと思った。
後半道徳についてはなしあった。規範や法律になり、権力になった。哲学的でないと思った。
終わり近く、救いは悪くない、という意見が出た。
始めの言葉ーー私が神だ、永井派、信じない、理解できない、答えられない、信じてない、いない、いやや、居てほしい、など。
途中飛び交った言葉ーー科学的でない、科学に変わっていくもの、アメリカは異常、日本は異常だが無神論者多く進んでいる、等。
後日妄想暴走ー未来にはゴキブリと人間のハイブリットが蔓延るのでは、エイリアン(映画)は神ではなかったのか、火炎放射器で焼き殺していいのか。
- 第16回「なぜ私が今で神なのか」(1月13日)
[各人の感想]
【横山さん】
ケンイチさん、お疲れ様でした。たくさんの参加で議論が広がりましたが、うまいこと方向づけていってくださったので、白熱した内容になりました。とても面白くて、楽しかったです。
参加の皆さんもありがとうございました。
感想を送ります。よろしくお願いします。
もともと独我論大好きの僕は、独在論や〈私〉の考え方によって、哲学にはまっていったので、永井大好きです。〈世界=私〉の開闢という奇跡こそが現実世界の前提だとする、独我論観には惚れ惚れします。
しかし、今日述べさせもらったように、永井の「私」観と「私的言語」観には疑問があります。〈〉が付いている〈私〉と、付いていない「私」を、混同しているのは、わざとしているのではないかと思えるところもあります。「世界に多数存在する身体のうち、なぜか一つが私の身体であるという極めて特殊なあり方をしており、どれがそれであるかを、私は観察によらずに知っている」(「誤診」)は、まったくわざとその間違いをおかしているのではないかと思います。
私的言語がなければ、一般的な言語も不可能だと永井がいうのも、問題を取り逃がしてしまっている勘違いだと思います。ただ、永井とウィトゲンシュタインの、その差異の中にこそ問題の本質があるよう5な気もして、たいへん興味深いです。私的言語不可能説については納得されない方も多そうでしたので、いつか、後期ウィトゲンシュタインの回を持たせてもらった時に、今日の続きの意見を皆さんから、お聞きしたいとも思いました。
【深草さん】
今回は永井均の『私・今・そして神開闢の哲学』を中心にケンイチさんに発表して頂きました。最初に「問いを擬似問題とみなして飛び越えてしまう人がいるが、踏み止まって問わずにいられない人もいる」という話があったような記憶がありますが、私も結局は「飛び越え」派であったかなあと思いました(というのは永井氏のレトリックに辟易する面もあるためですが)。会場では言いそびれていて他の人の発言と重複しなかった思いを述べますと、「語り得ない」何かに関する話は、議論においてはどうやら先手必敗ゲームではないか、ということですね。ですから、通常はどうしても後手・後出しが強く、問題を提出する側よりも、事後的にその問題を擬似問題だと批判する側の方が強いはずなのですが、そこを機先を制して相手を「誤解・無理解」の檻のなかに囲い込み、自分は超然たる立場から「そうではない!」と相手をコントロールするやり方が、永井氏もケンイチ氏もいい意味で実に巧妙だなあと思いました。
【はじ銀】
冒頭にも表明したとおり、永井均の思想というのは僕にとって自己不親和な存在であり、批判的な立場から参加することになるであろうと思ったし、そのようにした。
冒頭に「言葉というものを適切に使うこと」の必要性を「それとなく」訴えて、そのままに流れていった。そこに僕は何故だろうとずっと思っていた。
話の流れ全体としては、哲学的問題についてよくある話、ということで受け止めていた。永井均もよく問題にしていたし、当然出てくるものだろうと。
正直なところ、例会の中盤は僕にとって大して重要では無い。何故なら他我問題は僕取っては無意味であるし、今の意識が現実か夢かなど、それほど問う程に重要なテーマでも無いと思う。(そもそも現実、夢の区別が僕にはよく分からない)。
しかし、最後の言語論については非常に興味深かった。興味深かったというのは、単純にケンイチさんと僕とが非常に近しい言語観を持っている、ということ。それに対し、批判的な意見が多いのは承知の上、なかなか受け入れられないものであると思う。(これを言うが為に最初に言語の正当な使い方の話をしていたのかと、計算済みか!)
それでも、永井均を崇拝しているケンイチさんがそれと真逆といっていい程のはじ銀と近しい言語観(永井均は分析哲学的だし)共有しているのは不思議である。あのような言語観を持っていて、何故永井均が読めるのか、謎である。
付言すれば、何故情報一元論を受け入れられないのかとも(この辺はまた別に…)。
ともかく、大阪哲学史上最多人数の例会であり、初参加者も活発に意見を表明出来る場を作り、詩的言語なるものを提唱し、最後を詩で閉めるというような粋な構成を見事に作り上げた。これまでの発表の中でも屈指の成功例と言えると思います。
少なくとも、僕を含めて今後発表する人達にプレッシャーを与える程の発表で合ったと思います。
発表、お疲れ様でした、そして有難う御座いました。
【ウラサキさん】
今日の感想です。
予想通りの紛糾具合で楽しかったです。
永井均は元々、好印象だったのですが、
年末から年始にかけて読んだ『翔太と猫のインサイト』と『私・今・そして神』
によりかなり反感を抱くようになりました。
要するに「分かる奴だけ分かれば良い、分からない奴はバカ」という
ウィトゲンシュタインにも共通のカルト的雰囲気です。
ケンイチさんが何処まで我々縁無き衆生に降りてきて下さるのか
心配だったのですが、
永井よりは我々(ウラサキを含む大衆)寄りであるとの印象を得てホッとしました。
永井の書いたものは2割ほどしか理解出来た気がしませんでしたが、
ケンイチさんの説明は9割理解出来たと感じました。
横山さん、はじ銀さん、居村さんの発言も
各人のスタンスがほぼ分かっているので
難なく理解できましたが、
後半の深草さんの解説は主旨が良く分かりませんでした。
【ただひこさん】
誰でも、子供のころに独我論的な考えに一度は自ら到達して、その不思議さを味わったことはあるでしょう。私は子供の時の一時期、映画の「トルーマンショー」みたいに自分が映画の主人公で、周りの家族も含めた人や、全ての建造物が役者とセットの様な気がして仕方ありませんでした。
その後、思考実験で全ての細胞と記憶をコピーした自分が現れた場合、「わたし」はどちらに宿るのか、という話に触れて、「わたし」の存在を確信したこともありました。
だから、永井均の哲学の導入部については、かなり共感を持ちます。
ただしそこまで、ですね。話が複雑になるにつれて、ついてゆけなくなりました。そうした違和感は私にとっては一過性のもので、今は、世界を見るときに強く心の中で存在を主張するものではなくなっているからでしょうか。
結局何らかの違和感があって、その違和感を基にした哲学を構築したものの、違和感を共有していない人には理解しがたい、というのがその姿の様な気がします。なぜ人を選ぶのか。
どうも、何度も、「それは錯覚です」と言いそうになりました。個人的な違和感から出発していると思うので、その違和感自体が錯覚なら、土台自体が揺らぐのではないでしょうか。もちろんそういったことは重々承知の上で、その違和感を真であると前提して、体系を組んでいるのかもしれませんが、もしもその前提が錯覚なら、知性の無駄遣いをしていることになります。その哲学が同じ違和感を持つ人を救済するという意味があるのならべつです。しかしそれなら、哲学よりも宗教に近い。形而上学的話題を扱う哲学全般に言えるのかもしれません。
【福岡さん】
12月、1月と出席いたしましたが、どちらの回も楽しく議論に参加させていただきました。
哲学に関しては、入門書を読んだり自分で考えてみたりして、その結果を小説と生活に反映させる、というスタンスで取り組んできたのですが、今回、大阪哲学道場のおかげで、新しい入力と出力の場を得ることができて、とても嬉しいです。
まだ、皆さんの発言の趣旨をつかみそこねていたり、自分の意見や疑問を十全に伝えきれていなかったりする感はありますが、それでも理解や表現を生で試みる場があるというだけで、予想以上に楽しいものですね。
内容についての感想ですが、うまく理解できた議論もあれば、展開についていけなかった議論もあり、そういう時の自分の疑問を正しく言葉にすることの難しさをあらためて感じました(これは私の問題ですね(笑))
例えば、夢と現実の区別は可能か?という話題になったとき、皆さんの白熱した議論を聞きながらその傍らで、「そもそも夢は現実ではないのか?」「夢は現実じゃなくても、夢を見た(経験した)のは現実だが・・・?」、「現実だと思っていたAが、後から夢だったと気づくこと」と「現実だと思っていたAが、後から見れば過去になっていること」(過去って現実?)の違いは何だろう、などと考えていたのですが、うまくまっとうな疑問にすることができませんでした。無念。
意外だったのは、「私の開闢」が議論の前提になっていて、疑問の対象にならなかったことです。僕の哲学観には永井均と重なるところがあって開闢もそうなのですが、この発想には反発もあるだろうと思っていたので、すんなり受け入れられていることが少し不思議に感じました。
また、帰宅後ツイッターを見ていて気がついたのですが、途中退席したせいでケンイチさんの「公共言語と詩的言語(ドヤ)」の中身を聞き逃してしまったようで、それも悔やまれるところです。
次はフルで参加したいと思います!
【ケンイチさん】
発表者ケンイチです。今回は哲学の実践という意味で貴重な体験が出来ました。
ありがとうございました。
以下長くなってしまいましたが感想など。
初参加の方も多く、多様な価値観の持ち主による活発な議論となって面白かったし、概ね好評いただけているようで良かった。しかしながら実のところ 自分が本当に伝えたかったことが伝わったかというと「やっぱりダメだったか」というところである。しかし参加者の皆さんは少しずつ違和感や疑問 点、あるいは新しい認識を残すことが出来たと思うので、それらのいわば「蒔いた種」の成り行きを楽しみにしたい。
夫さんや福岡さんの感想メール、そして横山さんとはじ銀さんからの反論に現れているようにある違和感(出発点)を共有してもらうというのは難しい し、これは常に誤解との戦いである。しかし、私にとっての哲学とはまさにこの「私にとっての動かしようのない出発点」をいかに現実の出来事と整合 させるかという作業であり、そのための土台作りが独我「論」なのである。この作業が終わったら、その時はきっと私ははじ銀さんの情報一元論や IRONMANさん的実在論にも同意できるようになるのだと思う。
永井均と私では言語観に関してはどういう訳かかなりの食い違いがあり、また私は常々言語の使い方に関して言いたいことがあった。それを表明出来た ことは今回の発表の大きな成果で、聴き逃した方も居るようなので簡単にまとめておく。
自分だけが理解する「私的言語」が可能かどうかに関してウィトゲンシュタインは言語の意味は使用によって決まる=使用された時点で公的、つまり私 的言語は不可能と言っている。それに対して永井は過去の自分の記憶によってのみ正誤が検証できる言語というものは存在し、この私的言語の存在に よってこそ公共言語が成立すると主張する。
だが、私(ケンイチ)は永井の言うような意味での私的言語は成立しない(∵過去のクオリアには、他人のそれと同様直接アクセスできない)と考え る。一方で、ルールに基づいて客観的に検証が可能な言語と、検証は不可能だが何らかの意味・効果を持ちうる言語があり、この差をはっきりさせるべ きだと考えた。
そこで「現実世界内部での」ルールに基づいた検証可能な言語を【公共言語】と、そうではないものを私的言語をもじって【詩的言語】 と読んではどうかと提案した次第。
公共言語の例としては「ここに机がある」「これは猫だ」など。詩的言語の例は「私は赤い色を感じている」「うーん、こじむい」「喝ッ!」など。
>横山さん
「永井とウィトゲンシュタインの、その差異の中にこそ問題の本質があるような気もして、たいへん興味深いです」とのことですが、確かにその差異は 大きな問題だと思います。そしてその差異はルール設定の水準の差異なのではないかなと思います。言語の前提が<私>の消去であるはずなのに、そこ に<私>の唯一性を逆輸入してしまっているとでも言いますか……ちょっと上手い言い方が思いつかなくてすいません。後期ウィトゲンシュタイン回、 楽しみにしています。
>ウラサキさん
私は別に「わからない奴はバカ」等と言っているつもりはありませんし、永井もそういう意図ではないと思います。しかし私は縁なき衆生のところへ降 りていった(あるいは登っていった)りしたつもりは一切ないという事だけは言っておかねばと思います。
【IRONMANさん】
IRONMANです
<世界を開闢する神である私、世界であり神であり私であり、すべて同じものの呼び方を変えただけ、しかし実はこれらはすべて、ただ今であるにすぎない>
とはいえ、世界も開闢も神も私も今も「便宜的な名前」にすぎずそれらの名前を消し去ってもなんら変わりはない。そのことを表すのが「<>」である。
…以上のようにかつて神であり世界であり今であった私IRONMANは理解しました。
そして私の使命はケンイチさんが独我論と呼ぶ邪教を否定して、世界が私とは別に存在することを確かめることであると、あらためて確認しました。
ただこのケンイチ独我論の枠組みの何箇所かについて詳細をもう少し厳密に知りたいと思いました。
ひとつは通常「自意識」と呼ばれるものの扱い。
物質一元論と独我論が構造については同じであるとのこと、また神や世界だけでなく私まで<、>に入れていることから自意識の扱いは問題になるのではないか思います。
あと構造が同じという指摘について、それぞれの構造を記述する必要があると思いました。さらに問題は同じであるところではなく異なっているところにあるでしょう。
さらに私の理解が正しければヤマカッコもろとも名前を消し去った後にそれでも残っているものの正体は何かを明らかにする必要があります。それと自意識の関係が気になります。
そのあたりはできれば夏頃に私IRONMANの発表として主張したいと思います。
…「ワタシガセカイヲカイビャクシタカミデアル。ワタシガセカイダ。」という「音」が、<ケンイチさん>という「名札つき」で聞こえてきた。しかし私は名札とともに<人格>と呼ぶものをその音に結び付けてしまうが、その<人格>が私の想定するようなものかは確かめようがない。
【J・J】
13人のイカれた男
丸い大きなテーブルを囲んで男たちが話し合っていた
「これは夢だ」
「これは現実だ」
「現実だとどうして言える。夢の中と違うんか、まだ覚めてないだけかも」
「いや、現実や、これが現実と感じる」
「夢でも感じられるんちゃうの」
「リアル感がすごい、クオリアやな」
「赤いリンゴのクオリアか」
「これが現実というのは、いま、ここで、話し合っているから、夢ではない」
「夢かどうか見分ける方法は、複雑な計算ができるかどうかだな」
「なんで、夢の中でものすごい物理法則見つけたで、朝になったぐちゃぐちゃやったけれど」
「夢の中ではない、覚めている感覚が続いている。ずっと長く何年も続いているから死ぬまで続くと思えるから、これは現実だ」
「私の夢のなかのことで、そう言っている人がいる、だけかな」
「俺の夢の中だろ」
「中ってなにや、夢の外、て何や」
「夢と現実は交流できないのか、現実では夢の話するわな」
「何のこと、なに言っているかわからない」
「わかるよ、だから何も言わない」
「わからない、だから何も言わない」
「言ってるやん」
「現実世界にメール送ったらいい」
「どこから、内容は?」
「2月出席します」
チャンチャン
2012年
- 第15回「前期ウィトゲンシュタイン」(12月9日)
[各人の感想]
【深草さん】
今回はウィトゲンシュタインの『論考』を中心に横山さんに発表して頂きました。『論考』そのものについては「私にとって重要でないところを語り尽くしました!」といった印象で、ウィトゲンシュタインさんはさぞや退屈に(何しろ本人にとっては重要でないわけだから)、あるいは無念な気持ちで(本当は別のことを表現したいわけだから)書き進めたのではないか……と勝手に想像したのですが、他の参加者の方からはむしろ「ノリにのって書いたのではないか」という印象もあったので、受け止め方の違いを感じました。
発表を離れて考えると、「語り得るエリアと語り得ないエリアってのは、そんなにパッチリ分かれちゃってのかな?」と常々思っていて、横山さんのニューニュートリノ論に接しても感じたことですが、意外と世の中、「語り得ないこと」が頻繁に語られていて、何の意味論もなく発散しているような気がしてならんですね。もっとも、深草はウィトゲンシュタインの「私的言語」論をよく理解していないので、後期の文献や進んだ研究では違う地平がみえているのかもしれません。
【IRONMANさん】
以前に読んで全くわからず放置していた「論考」だが横山さんの解説のおかげでとっかかりくらいはできたかなと思えた。
ただ用語が自分のなかで整理されてしまうと、たとえばカントの枠組みと比べてウィトゲンシュタインの枠組みを使ったときに、説明力があがるという印象はなかった。
恐らくその理由は、事実と命題がどのように成立するのか?写像がなぜ成立するのか?といった事が私の「語ってほしいもの」であるということではないかと思った。
しかし、それらはどうやら「語りえないもの」らしい。
その場合少なくとも、なぜ事実・命題・写像などが「語りえないもの」なのかということにはせめて説明が欲しいところだった。
「世界の外にあるから」というのがどうやら「論考」の説明らしいが全く納得できない。
なぜ「世界の外」にあるのかの説明が欲しい。
しかしそれ以上の説明は事実・命題・写像などを前提として受け入れると説明されるとの事だった。
「論考」は循環論法だ、という話が出たが、全く納得できない。
腹が立ったので一回ウィトゲンシュタイン読んでやろうと思った。
[感想の追加です。]
「在るか/無いか」の問題を語ろうとする取り組みを受けて、その問題について「語れるか/語れないか」へと問題を移行させるのがヴィトゲンシュタインのやったことなのかなぁと思った。
しかし「沈黙」という結論を出すがその根拠は提示しない。
1、問題を提示
2、その解答は、解答可能な領域外にあるとする
問題の取り扱い方自体はそれまでの哲学的議論と変わってないのではないかと思うんですよね。
怪しい哲学史の知識に基づいた意見ですけど、
カントの「在る/無い/物自体」
という構造と、
ヴィト〜の「語れる/語れない/沈黙」という構造は、
ともに問題を解決してないだけでなく、解決のために提示した方法も同じなんではないでしょうか?
それと「独我論」という私にはいまだによくわからない専門用語がでてきましたが、発表者の横山さんがなり独自の定義で使っているようでした。
横山式独我論はNNT論みたいに名付けて「私のオリジナルな主張だ!」と宣言しちゃっていいんじゃないでしょうか。あれはわかりやすかったです。問題整理に有効そうな説明図式ですね。
マル哲マークみたいなものをつけてた哲学道場公認用語にして、例会、MLで公式使用可能とかしたいですね。
【ケンイチさん】
ケンイチです。15回例会の感想&コメントです。
今回特 に印象に残った点としては「本当の世界は〜」といった言明に対する各人の態度だろうか。カント的な「ものそのもの」が本当に存在するのか どうかという問いにどう応じるか。実はこういった問はそもそもナンセンスであり、真偽判定が不可能だということを、ウィトゲンシュタイン は青色本であの手この手でしつこく表現していたことを思い出した。
言葉の意味決定が、ウィトゲンシュタインは『論考』の時点では可能だと考えていたが後に自己批判することになったという話につ いて。前提が崩れた体系は空中楼閣であり、誤りと考えるのは普通の考え方だが、むしろ私は「これこれを前提した時、このような空中楼 閣が建つ」というデモンストレーションのように見え、「私の諸命題を葬り去ること。そのとき世界を正しく見るだろう(6.54)」等 と書いているあたり、本当に気づいていなかったの?と思ってしまうほどである(そんなワケはないが)。
そういう訳で、論理やナンセンスをめぐる議論は私にとって非常に示唆に満ちていて楽しい。今回の哲学道場はこうした意味で私の 好きな「哲学」的だったので、とても良かった。
横山さんが独我論の描写として「ニューニュートリノ」の例を出したところ参加者からは、それのどこが独我論なのかという突っ込 みが入った。私としてはうまい表現だなと思ったが、冷静に考えると確かにそれのどこが「独我論」なのかと突っ込まざるを得ない (笑)。しかし、「本当に哲学的な土台を描こうとすればこうなる」の好例として『論考』の会で話題になったのは自分的に印象深く良 かったと思う。
なお、来月との関連で蛇足しておくと、今回の論考用語である「事実」と「事態」は永井均用語での「神の意志」と「神の知性」に それぞれ対応し、「現実のようすから思考の範囲を確定させる手順」がどちらの方向からでも説明できて循環的な構造をとっていることは 「世界を成立させる主体がその世界の内部に位置づけられてしまう循環構造」によく似ているかなーと思ったり。
【ウラサキさん】
記憶が新鮮なうちに感想を書いて送っときます。
今まで何度か途中挫折してきた『論考』を、(難解な箇所は斜め読みながらも)曲りなりにも通読出来たのは良い機会でした。
ただ横山さんが焦点を当てていた「命題の一般形式」、「要素命題」、「像」といった考え方は、後にウィトゲンシュタインタイン自身が撤回することになる道具立てであり、それらを再構成して解説されても「今更」といった気持が正直あります。
結局は空中楼閣の大伽藍を案内されているようで、「で、結局これ全部作りもん(張りぼて)なんでしょ?」ってな感想です。
後半の「存在論的?独我論」の方が、今でも(永井均らにおいて)流通しているアイデアのようで、より興味深かったのですが、あまり議論が深まらずちょっと残念でした。
今回の『論考』解説は、恐らく横山さんの本丸であろう『探究』論をより美味しく味わうために必要な下ごしらえであったのだろうと個人的には納得しています。
あと配布資料についてですが、詳細なレジュメを作っていただいてありがたいのですが、参加者の皆さん各自でテキストはお持ちの様でしたし、『論考』は通し番号による参照が容易ですので論考の抜粋の方は不要だったのではないでしょうか?
私自身はレジュメの方も予め横山さんのブログからプリントアウトして持っていましたから、結局資料はどちらも不要でした。
【横山さん】
横山です。
ありがとうございました。今日の感想を送ります。
前半の、命題の一般形式から考えられる思考内容を全て挙げてしまおうとする試みについてはある程度、つじつまのあった話になったのではないかと思います。しかし、後半の、ウィトゲンシュタインの独我論については、性急な話の展開になってしまって中途半端な話になってしまったので、やや残念した。
ウィトゲンシュタインの独我論と、僕個人の独我論があいまいになってしまったのがその原因かもしれません。もう少し、この辺りの用意をしておきたかったです。
でも、「論考」はわかりにくい文章の割に、かなりストレートで純粋な内容で、討論をするにも、逆に難しかったですから、あんなもんか…とも思っています。
次回、また、来年、時間を持たせてもらえるなら、「探究」という魑魅魍魎にもトライしてみたいと思います。
ありがとうございました。
【はじ銀】
論考は気になりながらも読んで理解出来るとは到底思えず、手を出せずにいた書物の一つだったので、今回は有り難い機会でした。
今回ほぼ初めて論考に触れ、ウィトゲンシュタインが現代に於いても繰り返し参照され、また場合によっては理論の根拠とされている理由がわかったような気がします。確かに
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1425724524
にあるように20世紀最大の哲学者と言っても過言では無いと思います。
世界から語り始めて、その構造を言語というもので構築し、見事な体系を完成させた。そして語りは、世界を構築した道具立てで、認識論や倫理にまで及ぶ。多々曖昧さを含みながらも確かに天才の仕事だと思う。
ただ僕個人はソシュールのような記号論的言語観を持っているので、論考を成立させている根拠が受け入れられない。
またウィトゲンシュタインが「語りえ得ない」として切り捨てたもの、それらを問うこと、気にかけることこそが哲学的営為では無いかと思う。つまり、ウィトゲンシュタインと逆のベクトルを僕は持っている。
(なので、夫さんの途中「情報一元論の立場からするとどう思うのか」とのご指摘はさすがです)
そういう感覚で今日の議論に参加していた。
議論に参加しながらも、僕の中では壊滅していったポストモダンの姿がちらついていた。現代思想の冒険者たちシリーズの飯田隆「ウィトゲンシュタイン」のサブタイトルは「言語の限界」だった。
ウィトゲンシュタインは言語の限界を「語り得ないもの」で境界線を引いている。しかし、その根拠は自分の道具立ての中でのみ通用するものであるので、根拠たり得ていない。(ある意味ウィトゲンシュタインは言語への信頼を無くしており諦念から「語り得ないもの」という道具を作り出したのではないかとも思った。)(深草さんが「ウィトゲンシュタインはこれをHappyな気持ちで書いたのか?」との問いはこの辺からかな?)
言語の限界は、ポストモダンの人達が体現してくれた、その様の方がより説得力があるように思う。
ただ、現代の哲学のスタンスはウィトゲンシュタインを嚆矢としていることはほぼ間違いない。それは「現実的」だからだろうと思う。他方、それが思想を貧窮にさせていると思っている僕がいる。
僕は錬金術を夢見ているようなものなのだろうか。
>横山さん
発表お疲れ様でした。
時間内で見事論考を最後まで説明しきった手腕はさすがの一言です。
議論の合間々々にウィトゲンシュタインに関する他の著書からのものであろう知識が垣間見えて、本当にウィトゲンシュタインを研究されているのだなぁと思いました。
次の探究も楽しみにしています。
【J・Jさん】
遅くなって、すみません。1週間後に草稿書いたが寝かせていた。こんな理解でいいのかとか、映画「天地神明」をみて囲碁にはまってしまった。と勝手な弁明。
イヤー楽しかった。10人居た。小さな部屋にブラインドの隙間から陽が漏れていた。4時前に別件で退出、1月も参加希望しますが途中退室します。
◎はじめから、言葉がなじみないので、いや、なじみはあるがその定義になじむのに難儀した。◎自然言語でないという指摘があった、後世に活用されていないと思う。◎無限を認めていない、うんぬん等皆さんの発言はわかることの助けになった。飛び交う言葉の理解が不十分であったが刺激になって楽しい。◎とにかく、カッコイイ。言い切る気持ちよさ。おおきなことを語るめまいのような心持ち。世界(宇宙)の淵に立って、論理の杭を打ち立てていくすすめかた。
変だと思うこと。
1、論考は議論を拒否している、と思うが議論している。
2、世界という総てを語っている、と思っていたら独我論が出てきて、急にわたし(作者)だけの小さな世界になった。
3、2の8乗だけでもややこしのに、名は無数ほどあるから役に立たない、途中でおかしな文を省くという操作があったが、その論理はどこからくるのか。
以上。今週2回書き込んだが、操作ミスで消してしまった。囲碁はどんな論理か。
【夫さん】
感想遅れまして申し訳ございません。
いやぁ、正直言って私には難しかった。前に土屋賢二を読んでいて、哲学問題のほとんどは言語の不完全さからくる、いわゆる疑似問題であるということをウィトゲンシュタインが証明した、みたいなことが書いてあって、へぇ、そういうものか、と変に納得していたのだけど、実際、ウィトゲンシュタインの哲学に触れてみれば、それほど単純な話ではないことが分かった。今思えば、ウィトゲンシュタインの哲学に影響を受けたウィーン学団の思想も含めて、土屋はそう書いたのかもしれない。けど、私自身そう言って一刀両断に割りきってしまう誘惑に浸りたくなる気持ちはまだまだあって、どうして今はウィーン学団の思想が顧みられないか、多少不満に思ってさえいる。
それはいいとして、要素命題とか、事態とか、対象とか、いろいろな用語が出てきて、野矢の本を読めば、なんとなく意味がわかるのだけれど、いざ、応用的にそれら用語のそれぞれの関連を考えると、何が何だか分からなくなってくる。書かれていないことも多いし、例示も少ない。けど、それでもみんなでああだこうだ、と考えているうちに、なんとなく漠然とした形が見えてきたように思えたのはスリリングで楽しかった。
遅れたお詫びっていうわけではないですが、ネットで論文を一つ拾ったので、ご参考までに。(既にご存知ならご容赦を)
(科学哲学vol.37(2004)No1)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj1968/37/1/37_1_61/_pdf
- 第14回「身と心の区別と関係」(11月4日)
[各人の感想]
【はじ銀】
出だし発表者が提示した、議論の基盤としたかったであろう部分から指摘が入り、ストーリー的に難航するかと思われたが、結果議論として成り立ったのは発表者の手腕ゆえだと思う。
心身問題についてはサールのテキストで今まで繰り返してきたが、今回でそれぞれの心身、特に「心」についての立場はそれなりに明確化され、またこれ以上議論という場に持ち込む必要も無い程に、これまでの議論の成果もあってのことと思うが、出来上がったのでは無いかと感じる。
個々人それぞれ立場が違うが、それぞれの違いを見ることによって、帰って自分の立場が鮮明になったという意味で有意義であったと思う。
今回が心身問題についての議論の総決算かとも。
終盤、自然科学と哲学との関わり方について、非常に中途半端な意見を述べたが、個人的に「哲学」の議論に拘っているのではないことは付け加えさせて下さい。哲学道場だから哲学的議論を、と思っているわけでは無い。ただ、議論として「哲学的」と言いにくいというだけで。他意は無いです。
しかし、現在に於ける哲学が占めるべき領域、役割、などは個人的により考察されるべき課題ではあると思います。
最後の深草さんの天皇論とそれに連結される「がある」と「である」の議論は面白かった。ざっくりいうと「がある」を某かにおいて「である」と根拠付けるシステムが深草理論である、と解釈したが当たっているだろうか。
【J・Jさん】
遅れて参加、意識的に物を動かす、がある である 等板書。
マインド4章の感想ですが、(この本は案内的で良い、歴史や評価や用語のことがわかる。)前の章をめくりながら読んだ。 で、173ページ8行目 意識の因果的な機能とは、ニューロンやシナプシスのレベルよりも高いレベルにおいて記述される脳の機能の形式にほかならない。 わからない、高いレベルってなに、何も言っていない感じがする。
169ページ後半の同じ文章でも意味するところが違う例は興味深い、が、それなら、言う意味を失う。 「脳過程に過ぎない」「物理的世界の一部」「別の何か」 何を言っているのかわからない、何も言っていない、あいまいすぎる。言った者勝ちみたいな感じ。なんのこっちゃ。
【ケンイチさん】
IRONMAN氏の心身論について、サールのMiND第四章にヒントを得た改良版の説明か ら……だったがまず入り口の心(意識)、神経系、運動系といった分析の段階から突っ込みが入り説明が進まないという、前にも見た感じの展 開に。しかし言葉の使い方にコンセンサスが取れないまま説明を進めたところで、出来上がる結論に意味があるとも思わないのでこの形はこれ でいいのではないでしょーか。悪気はないのです(笑)
行き着いた結論は概ねサールの意見と同様で、自然科学の世界観にマッチした「それらしい」も のでした。私やはじ銀さんの世界観との違いなど微々たるもの、と氏は言いますが、私はその僅かな違いが決定的だと思うのです。
IRONMAN氏的には脱線だったようだが、私が面白いと思ったのは神経系と運動系の分け方とその根拠、さらには自分の体と単なる物の区 別が存在するのか?という問いに対する対処の仕方だ。
「自分の体と他の物の間には違いがある。根拠はつながっていて、動かせるかどうかだ」との主 張に対して私は「精巧な義手」や「ラジコン」の思考実験を持ちだして反論したが「両端に白と黒がはっきりあることが分かっていて、その違 いを問題にしているので中間のグレーの話はしない」とのことで重要な問題ではないとIRONMAN氏は言った。一方私の考えていたこと は、対比させて言うなら「中間にどうしようもないグレーゾーンがあるような事柄は、実は両端の白黒もグレーの一種であり違いなど無いので は?」という趣旨になる。当然、議論の上で便宜的に白黒を定義するのであれば私の反論は無意味なのだが、「違い」の突き詰め方に関する立 場の違いが現れているように思われ、これはこれで興味深い。
私のこのような姿勢は「私」以外のあらゆることが「みなし」に過ぎないという独我論的な世界 観と無関係ではないと思う。ついでに言うならば私が今回の大哲で行った突っ込みの数々は、独我論的な「みなし」の世界の中で心の実在につ いて云々することがそもそも間違っているということを(無自覚的にだが)表現していたという事に最後に気づいた。
そんなこんなで、独我論の別バージョンである「深草式唯天皇論(?)」も炸裂するなど終盤は もはや何を信じればいいのかという状態に。こうして、予め仕組まれていたかのように完璧なパスが回ってきたので1月は永井均ぽい感じで独 我論喋ることになりました……ということでいいんですよね?
【IRONMANさん】
やりとりはあまり活発ではなく、沈黙や短い発言中心でなんとなく重苦しい雰囲気が前半つづいた。
しかし個人的には、議論の範囲が限定され、論点が明確または明確にされていき、参加者間の主張の異同を詰めていく前半の議論はとてもおもしろかった。
これまでは激しいやりとりが成立することをめざしていたが、それ以外の議論の在り方もありだと思った。
認識にまつわる問題への複数のアプローチがある状況において、その中の一つのアプローチの仕方については概念や思考がある程度整理され、同意はしていなくとも概念や思考をする共有する参加者が今回生み出されたのではないだろうか?
大哲が一回話し切りの会であることは間違いないし、議論の積み重ねによる議論の発展を目指す意図は全くない。
しかしこれまで取り上げることができなかった問いを今後は問いうる基盤が今回築けたのではないかと思った。
もちろん基盤の再構築を要求する主張は常に募集したい。
【深草さん】
今回はIRONMANさんから心・脳神経系・身体・物体(身体を通じて動かす対象)などの区別と関係について論じて頂いた。途中に登場した区別や分類については全体・部分関係と目的・手段関係を混同していると感じ、また、心以外の部分を特に神経と身体といった境界で区別することにどのような意味があるのかよくわからなかった。神経系と知覚や筋肉との関係は生理的または物理的な関係を超えないとすれば、特にそこに不思議を感じる所以はなさそうだ(コンピュータからの制御によってセンサやアームが働くのと同じ程度の不思議さである)。IRONMANさんは神経系の一部に「心」が並行して働くと考えていたようだが、神経のどこからどこまでに並行しているのかは特定可能であると考えているようで、それは不思議であった(「心」が自らが関係する時空上の領域を特別な仕方で切り取ると考えない限り、今回ケンイチさんとの間で話題となった線引き問題や滑り坂論法が重要になることはないだろう)。
後半、深草からは「哲学的立場にとって決定的なのは、何らかのかたちで「である」(本質)と「がある」(存在)との統一者を認めるかどうか、認めるとすればどのようなかたちで認めるかである」という話をさせて頂いたけれども、要するにこれは神の存在論的証明の変奏であって、個人の心(≒魂、IRONMAN)と世界全体(≒私、ケンイチ氏)との対立があれば、「神」も登場させるのが筋かと思って出してみたという次第である。なお、魂・世界全体・神の三幅対の理念はカントが提出したことで有名である。
【ウラサキさん】
前半の感覚系と運動系の話では、
IRONMANさんの図式化にどうもなかなか納得が行きませんでした。
それと後半の「がある」、「である」、「唯一者」の話は流れに殆んどついて行けませんでした。
個人的にはサールの第4章の主張に最も説得力を感じております。
- 第13回「大森荘蔵を読む」(9月23日)
[各人の感想]
【はじ銀】
まず、今回大森荘蔵という哲学者の著書を読む機会を得たことそのものが大きな収穫でした。テキストの帯に「哲学するとはこういうことだ!」とあり、横山さんが持ってこられていた、「再発見日本の哲学」シリーズの 野矢 茂樹著「大森
荘蔵」のサブタイトルが 「哲学の見本」となっていたのもその通りだと思います。機会を与えて下さったこと感謝致します。
感想としては2点です。
1)今回取り上げられた論文(エッセイ?)は、大まかに言って(ある事象)(ある状況)を人間がどのように認識しているか、認識すべきか、どのように錯覚しているか、ということをテーマにしていると言うことが出来ると思います。
そうであるとして、大森は(ある事象)(ある状況)を言語で分節して、それらを論理的に組み替えながら思考していくそのプロセスを書いていると思われます。
今日の議論でツッコミどころとなったところの多くは、「言語で分節」する差異に抜け落ちた点、であると思いました。例えば、「触れる」ということの意味(つまり事象)、記憶と現実との境目に存在するであろう感覚、夢の感覚と現実の感覚、など。紙面の制約がもし無かったとしても、恐らく記述しきれるものではないと思う。つまり、思考する素材が揃いきらない。事象/事実を「言葉で論理的に思考する」ということの限界が垣間見えたように思った。
2)今日取り上げたTの時代と後期では意識というものの捉え方が大森の中で異なっているとのことだったので、その辺の変遷をより知りたいと思いました。テキストのUも読みましたが、この頃の大森の現実の捉え方には少し親近感のようなものを感じたので。
また「ロボットの申し分」のところで、「信用」は「感情」が担保しており、その「感情」は「命」が担保していること、「心」という実体はなく、「優しさ」であったり、「悲しさ」であったり、といったものの複合体である、などといった明らかに僕らしくない発想が出てきたことは、個人的に自分自身に驚いたと同時に、収穫でありました。哲学的かどうかはおいておいて。
【横山さん】
「心の中」の話のところで、「他者が十分に人間らしい行動を示していれば、そのことのみが心を持っていると表現されるべきものなのである。だから、他者がどんなクオリアを感じているのかという問いは、回答不能であり無意味であり、それは問う意味が無い問題である」というような(文言は全然違いましたが、何と表現されていたか忘れてしましましたので、とにかく、そういうような)発言がありました。しかし、僕はこの辺りがどうもすっきりしません。大森は、「「他者がどんなクオリアをもっているか」という問いを無意味だと捉えることも、その問いを有意味だと捉えることもどちらも可能であるから、そのどちらの立場に立つかは、どちらでも自由であって良い。あるいは、人間の生が豊かになる方を選ぶべきである」と言っているように、僕には思えるのです。ちょっとの違いですが、大きな違いだと思います。
また、「夢みる脳、夢みられる脳」では、大森の論文自身に疑問を感じました。ここで取り上げられている「脳」は、そのまま「私」と言い換えることができるような意味で使われていると感じたのですが、この「脳=私」が、世界内に存在する「物・こと」としての存在と捉えるべき箇所と、世界の限界としてアルモノであって、世界内に存在する「物・こと」ではない存在として捉えるべき箇所が、はっきりと区別されないまま混乱してしまっている文章に思えました。それゆえ、今日の論議でもここの部分だけはやや盛り上がりに欠けたのではないかと思います。
【深草さん】
大森荘蔵氏の哲学エッセイを取り上げて検討する回となった。私たちは文脈に応じて日常言語で現象を切り分けたり、また断片を再度パッケージしたりしているけれども、「そのようなパッケージは論理的には首尾一貫しない!」というのが複数のエッセイに通底する大森氏のスタンスかと受け取った。
しかし、その結果として間に合わせだが実用的な日常言語を論理の間尺に無理矢理合わせて使用することになってしまい、言わば「時間を止めた言葉」しか認めないということになってしまっている。これでは言葉(特に本質)の向こうにある「存在」を却下する(だけならまだよいが)ばかりでなく、日常言語そのものの分析にすらも至れないのではないか。なぜならば、論理的に語りたければ論理専用の記号と体系があるのだからそちらを使えばよいと感じるからである。ただ、飽くまでもエッセイなので、大森氏の感覚を反映した文体からもっと読み取るべきもの(それはそれで文学と呼ぶべきか)があったのかもしれない、とも思う。
【ケンイチさん】
大森荘蔵はまだエッセイを数本読んだ程度だが、独我論ぽくもありつつ妙に物理的なものを信用していたり、視覚を特別視しているなど、基準(、言葉 遣い)が定まってない印象があり、そういう迂闊なポイントはやはり突っ込まれていた。しかし、日常的な何気ない思考から雪崩れ込むように展開するエッセイのスタイルは思考が追えて面白いし、自分たちの思考のたたき台としても使いや すく話が盛り上がったのが良かったと思う。専門的な用語を設定しないからこその欠点と利点という事だろうか。
日常の言葉遣いが話題になるエッセイが多かったが、「ただ(世間の常識に反して)こういうことが言える」、と提示しているだけなのか「世間の常識 に一言モノ申す」、という意図なのかによって議論の扱いもズレることには注意が必要だと思った。そのあたりは自分が意見を述べる際にも気をつけた い。こと哲学に関しては私の思考はほぼ前者の意図なのだが……
今回の大阪哲学道場では、心の有無やその条件が随分話題になった(「ロボットの申し分」ほか)。森羅万象に心があるのか、全人類(または知的生命体)に心があるのか。はたまた心は実在せず、何らかの勝手な基準であることにしているのか。概ね 立場はこの3択ではなかろうか。私は第三の立場で、自分が何らかのやり取りによる実感によって相手に心を想定するという立場だ(他人の心は私の心 中にしか実在しない)。
しかし、このような考え方は多くの人の直観に反して「心は実在しない」ことを認めること、「会話するプログラムなどに簡単に心があることになって しまうのではないか」という危惧などが障壁になって受け入れられづらいのだと思う。
心は実在する派のIRONMANさんが今後この話題で発表するそうなので、どのような主張が出てくるのか楽しみである。
【J・Jさん】
ML模索(遅すぎる)勉強できる機会はありがたい。皆さんに感謝。
いろんな情報が飛び交って楽しかった。
○夢の話が聞けて良かった。他人の夢はじっくり聞けないが良い機会だった。○ロボットの話は受け付けがたい、ロボット言っているわけでなく、話者が言っている。○深度ゼロメートルの表現は海軍出か当時はやっていたのか遊びか、物理畑出身でこれからのページ期待大。
【IRONMANさん】
予習せずとも参加可能(しても全く問題ないが)な会であることを身をもってしめすために、自分以外の発表者の時には予習なしで参加して、その場で考えるようにしているが、ウラサキさんの丁寧なレジュメのおかげもあって、まぁ、なんとかついていけた。
・言葉の定義が、明確/あいまい。
・説明が、わかりやすい/わかりにくい。又は、わかったと思える/思えない
などが問題になりがちな文章を書く哲学者のようだった。
下記の主張、議論が個人的にはおもしろかった。
・現実と夢を判別する根拠の有無を問えば、根拠は無であると思われるが、仮に有が成立する場合を構想するならば、それはどのような条件を満たす必要があるのか?
・広辞苑を引く行為はコミュニケーションなのか?辞書には心を想定できないのか?
・やりとりの成立/不成立と心の有/無、に関連が有るか無いかは不明。
- 第12回「ドグラ・マグラ」(9月23日)
[各人の感想]
【横山】
デタラメだとも思えるほどのハチャメチャな空想「論文」をどうやって哲学論議に料理するのか、すごく難しいと思っていたのですが、なかなか面白かったです。はじ銀さんの「情報一元論」は、「情報」を常に一人称的に捉える「観念論的な情報」でも、常に三人称的に捉える「唯物論的な情報」でもなく、その両者に分離する以前の、一人称でも三人称でもない視点から捉えるべきアイデアだと理解しました。観念論や唯物論の欠点をどちらも持たない新しい視点で捉えようとしていて、とても魅力的です。でも、結局どっちつかずになってしまって、もう少し検討が必要なようですね。「ドグラマグラ」の記憶と現実感覚の混乱は、まるで映画「ジェイコブス・ラダー」のようで75年以上も昔の小説とは思えないほど面白かったです。
【うらさき】
せっかく詳細な資料を用意していただいたのに「狂人の解放治療」についての議論が無かったのは残念です。
「脳髄論」と「情報一元論」との関連がやや弱かったかな、と感じました。
「情報」の定義が不明確であったため、「記号」や「言語」との混同が一部の参加者に見られ、その点、説明不足であった感が否めません。
結局、「情報一元論」とラ・メトリ流の「物質一元論(唯物論)」やヒューム流の「感覚一元論」との異同を明らかにすることが、今後の課題となるのではないでしょうか?
【IRONMAN】
・「言語」と「情報」という対概念がある。
・「情報」は「言語」によって分節される。
・「言語」になる「情報」と「言語」にならない「情報」がある。
・人間に理解可能なプログラム言語と、人間には理解不可能な電気信号であるマシン語、という概念をそれぞれ「言語」と「情報」の比喩として用いる。
・プログラム言語からマシン語へコンパイルするように、「言語」から「情報」への変換が可能。
・「情報」は五感から取り入れられる。
既知の思考や議論に回収されかねない道具立てだが、自身の違和感を支えにそうした回収に抵抗するはじ銀さんと、質問や説明を重ねてその主張が既存の思考と同一のものであると、はじ銀さんに認めさせようとする他の参加者とのやりとりが盛り上がり、充実した時間を過ごせたのではないかと思う。
私はいつも大阪哲学道場でのやりとりを充実したものにするための方法を探っているのだが、毎度己の発表内容すら十分にまとめきれず、発表しながら発表内容を考えているような状況で、なかなかそのための材料集めを行えずにいる。
しかし今回は聴衆としての参加だったので、ある程度議論の流れを俯瞰することができ、対話が盛り上がるポイントを2点、見つけることができたので発表してみたい。
?自身の主張に至るまでにその前提になる考え方や知識を説明する。
?通常とは異なる意味づけで用いる概念を投入する。
?を行うことの効果は、知識や考え方、着眼点の異なる参加者を共通の文脈にのせることができる事だ。説明の過程で各参加者の理解のずれや言葉の定義のずれが明らかになり、擦り合わせられ議論の土台が作られていく感があった。
?にあたるのは「情報」だろう。このはじ銀さん独自の用語法が参加者を議論に引き込んだと思われる。既存の思考に納得しきれない自身の違和感を表現するために、独自の用い方で概念を扱うことで、他の参加者はその差異を言語化しようという動機づけを得るのだと思う。
今後機会があれば使ってみようと思う
【深草】
発表者はじ銀氏の「情報一元論」は結局唯物論であるとのことで、その点拍子抜けであった。せっかく「情報」という名称を与えたのであるから、それにふさわしい個性を与えてほしかったというところである。
経過について書き留めておくと、深草が発表者の「情報一元論」について尋ねたところ、「『情報』は言語で表せない」とのこと。情報というと深草は数字の列を思い浮かべてしまうのだが、そうではなかったようだった。そこで「人間の認知から独立して存在する」という規定を定義に持たせた「物質」という概念を軸に使い、「情報とは何か?」という点について次の三つの場合分けを提案した。
1.「情報」は物質と同じである(情報一元論は物質一元論と合同である)
2.「情報」は物質ではない(つまり情報は認知と関連する)存在だが、物質も存在する(二元論もしくは多元論)
3.物質概念を否定する(情報一元論は観念論の一種である)
これらの場合分けは相互に排他的ではあるが、網羅的ではないかもしれないので、一応可能性としては三つのいずれかの立場を採用して話を進めるか、もしくは四つ目を提案するかいずれかとなるはずだ。発表者としては一つ目の情報一元論=物質一元論という立場だったようで、しかも「物質」は自然科学で扱われるような法則性を持つという。そうすると唯物論の立場と何も変わらなってしまうため、深草としては肩透かし感がある。ただし、もちろん王道としては「ではそもそも『物質』とは何か?」という筋が残っていて、また話題に登ることは必定であろう。
【ケンイチ】
ドグ ラ・マグラを枕にして情報一元論の改良版を提出するという構成はなかなかに面白かった。
しかし物質的なもの(後述での「対象」にあたる?)を情報に還元するということろで違和感を感 じて一元論を貫けなかった様子。深草さんからは「この違和感が大事」という発言が出たのが印象的だった。
発表者のはじ銀さんは機械論的立場で、自分を含めた全員が哲学的ゾンビでも問題ないとする立場 だが、実際には氏の発言には「意識」「思って」「自律」などのワードが自然に出てくるあたり、論理的に分かっていることと実感として思っ ていることがだいぶずれているのではと思った。
「情報」という言葉の用法が一元論的な意味と、日常的な意味(≒言語?)で混同されていたのが 原因だという話になったが、私を含めた参加者の間でも最後まで食い違いが解消できなかったような気もする。「あぁ、言語ゲームを実践して いるな」と思うなど。
あえて科学者的な視点で野暮いことを言うと、定義や公理のような証明不要とするものをきちんと 宣言して、そこから導かれることを通じてその妥当性を検証する、みたいな流れに乗せられるとまた違った議論を作れるかもしれないと思う。
世界は全て情報であるとする点で私はウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に近いものを感じ て少し口走るもイマイチ伝わらなかった。往生際が悪いようだが、せっかくなので何故そう思ったか書き起こしてみた。
まず必要な引用。
1.世界は成立していることがらの総体である。
2.成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である。
2・01.事態とは諸対象(もの)の結合である。
2・021(一部).他の対象との結合可能性の外にはいかなる対象も考えることはできない。
ここで、結合以外に対象を考える方法はないので、対象に関することは全て「結合」に還元でき る。
以上の命題からは「世界とはある結合である」が導ける。
「対象Aと対象Bがかくかくなる形で結合している」といった命題を情報と呼ぶならば、論考を情 報一元論的に読み替え「世界は情報である」といえるのではないだろうか。
【ただひこ】
はじ銀さんの「情報一元論」は、まずは心身問題について適応すべきもので、最終的には世界自体に拡張すべきものでしょうが、そこまでの深い議論の段階まではまだ達していないような気がしました。その段階なので、はじ銀さんの主張が、ヴィトゲンシュタインや、行動主義等の考えに近い、と指摘するみたいに何らかのたがにはめようとせずに、その主張自体に説得力があるかどうかによって、議論や批判なりをすべきだと思いました。
哲学道場の目的は、「情報一元論」を、はじ銀さんがさらに深く極めるべく、議論や批判などで、サポートしてあげることかな、と思います。ですので、前回の道場の議論を参考にされて、もっと完成された「情報一元論」を今後、聞かせていただくことを楽しみにしています。
私自身としては、前回の議論の途中でついていけなくなって、ほとんど発言せず、まったく借りてきた猫状態に陥ってしまいました。情けない。嘲笑的な思考に慣れていないせいですかね。あまり、哲学書に親しんでもいませんし。けど、めげずに、頑張って勉強して皆さんについていくよう努力します。
情報一元論の考え方を参考に、私なりに突き詰めると面白いなと思ったのは、人間の脳髄(または全身の細胞?)に事柄が記憶されるときに、コンピューターの内部の2進法のデーターのように、それ自体では可読でない何らかの記号が記録されて(しかも、人それぞれシンタックスや記号が微妙に異なる)、そのデーターは本人でしか翻訳できなく、その翻訳する仕組み自体が思考の一部をなしているのではないか、とする考えですね。
あと最後に、「ドグラマグラ」をせっかく読んだので、もっと「ドグラマグラ」自体について語りたい、と思ってしまいました。けど、それでは哲学になりませんね。
【J・J】
遅くなりました、感想書いてないからまだ感想読んでいない、読まずに書かなあかんと思いまして。
ドグラマグラの感想。
脳のことを脳で考えるのは堂々巡りで嫌になる。しばらく避けていた。
○刺激的な会でした。前後に関連本を読む機会になった。
○人間の細胞は60兆で100兆の細菌が共に生きている。誰が何が統一するのか、脳とか私とかはどれだけの部分の集合かわからない。集合かどうかも知らない。
○情報は物質だ、には無茶を言い切る強さがある。考えを促す。星座はどこにもないが、線を結んで図に描いて航海に利用される。
- 第11回「意味の生理学」(8月26日)
[各人の感想]
【横山】
「心的な意味の議論が脳などのシステムだけから導けるか」と「システム内の形式的な情報のやりとりだけが本質的な問題なのか」と「一人称的な意味を脳システムから導こうとすることに意義があるか」の三者の議論が意外にからみあってきたので面白かったです。
【ウラサキ】
活発な意見交換が出来て良かったのですが、行動主義と機能主義の違いが依然としてイマイチ良く分かりませんでした。
〔発表者の〕IRONMANさんの立場は御自身では論理的行動主義に最も近いということでしたが、生理学的立場を基準にする以上、結局同一説になるのでは無いでしょうか?
【J・J】
読んでいない、理解していない、見当違いだ、部分的過ぎる等々あると思いますが、失礼します。以下3点。
・「わかるということ」は機械のプログラムは判断できない。わかるというのは人間個人だ、お前はわかってないとの言い合いはあるが。
・「一人称はない」「主感はない」と言い切って、後で考える。で昨日、「一人称は三人称の局所偏在だ」との置き換えにたどり着く。
・唯物論。この手の話で思うのは、なぜ「生命」という言葉が出てこないのか。神経伝達の方法は化学的電気的であるが、その組織をつくったのは維持しているのは生命である。その組織は物とはいえないのでは。死んだら物になるが。
【ただひこ】
やっぱり私には何が問題か理解できなかった。その土壌に乗って話に加わることは可能だけれども、入口のところで躓いてしまっているので、どうも徒労感を持ってしまう。意識の問題については脳科学からの説明で十分ではないかと思う。脳科学者による本を読んでみてもかなり哲学的な内容に踏み込んでいるものが多い。科学的な思考や、実験等の裏付けがある分だけ、私には説得力があるように感じられる。この分野で哲学者の出る幕はないのではないか。(参加してまだ間がないのにえらそうな意見ですいません)
【はじ銀】
出だし、発表者が問題提起をし終える前から突っ込みが入り、そのまま参加者がそれぞれ独自の立場から議論していたように思える。私はじ銀ももちろんその一人である。今回の表題は「意味の生理学」であったが、個人的には「意味」というものを「生理学」的な観点から解明しようという主旨は面白いと思う。しかし、それが可能かどうか。意味を脳の働きに還元出来るかどうかについて、発表者は否定的に考えていたように思えるが、はじ銀としては可能であると思って話をしていた。先に書いたように、独自の立場で話していた。
途中○○主義というものが三つ並び、それぞれの違いについて議論していた場面があったが、そういう語句の定義には余り興味が無いので、個人的には少し退屈だった。議論はやはり個々人の主義主張のぶつかり合いの方が面白い。
反省会の時に話が少し出たが、今回はテキストの選択がまずかったように思う。入門書はとっつきやすいが、その著者自身の主張が入ってこない(若しくは入ってきても後半、MiNDはこちらか)ので、結局旧来からある問題(今回の場合は心身問題)の、しかも問題の設定自体も目新しさの無い、そういう中で話を開始することになる。
それでも話が盛り上がったのは参加者のモチベーションの高さ故か。
【深草】
この物理的世界を開いている端的な唯一の「意識」の位置づけについては二通りある。それは、物理的世界の外に位置づけるか、もしくは意識の全体が物理的世界の全体と等しいという内在的な位置づけを行うか、の二つである。前者については今回議論されたが、後者についてはまだ議論の余地が残されているというのが今回の感想である。
補足すると、「意識」の位置づけをこのいずれかにしない場合、意識や意味について使われる言葉遣いと物理的・生理的記述について使われる言葉遣いとの間に解消不能な二項対立を生じさせ、記述が免疫不全を起すであろう。言い換えれば、この二項対立から抜け出す方法として対照的な二つの道があるということだ。ひとつの道は「意識」を物理的世界の外、即ち時空間を超越した地点に位置づけ、物理的世界の内部において「意識」は存在しないとするもので、いわゆる唯物論の立場が成立する(唯物論の立場は今回発表者が擁護を試みていた)。他方、もうひとつの道は今回あまり議論されなかったが、意識の全体と物理的世界の全体を同一視して、汎神論に近い立場を取っていくやり方で、こちらの内在的な道の方は二項対立の出口としてまだ未開拓ではないか? と予想している。
【IRONMAN】(大哲主宰、今回の発表担当者)
参考図書のMiNDを読んでない方や、前回参加されていない方にとってはわかりにくい話になっていなかっただろうか? 連続した内容で、かつその回のみの参加でも楽しめる議論にしたいと思っているがなかなか難しい。ただ、途中でMiNDの内容を説明を行なったが、参加者のテンションが一気に下がったのが印象的だった。
一つ気になったのは、「その議論はすでに専門家が行なっている」などの発言や、サールはこう言っているという主張が見受けられ、お勉強会になりつつあるように思える。
素人のトンデモ理論でも、発言者自身の思考であるならば尊重し、聞き手も自身の思考に基づき反論するという哲学道場の理念に反するものであり、そういうやりとりがここのところ増えてきているように思える。
話を膨らます事も期待して参考図書を使っているが、それわ掲載するようにしたのがよくないのかもしれない。上手く活かせたと思えたためしもない。
最後に毎度のことだが自分自身の主張だけだと話が5分くらいで終わってしまうので、これはなんとかしないといけないと思う。
2011年