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アバウトアイコン哲学道場はどんな方に来てもらいたいのか

一言で言えば、哲学道場はあなたの「哲学しゃべりたい欲」を満たします。「哲学しゃべりたい欲」とは何なのか、それを自分が持っているのかどうか、それを満足させるにはどういうやり方があるのか。以下、具体的に説明していきます。

A.なぜ哲学についてしゃべりたいのにしゃべれないのか

まず当道場が想定する「哲学しゃべりたい欲」を持っているとはどういう状況なのか、それを説明致します。哲学に関心があってしゃべってみたいのにしゃべることができない、それはどういうことでなぜそうなってしまうのでしょうか。

1. しゃべる相手がいない

まず哲学について語り合える人間関係があるかどうか、が問題です。しかし、哲学に関心がある人は言うまでもなく少数派であり、ほとんどの人は孤立しています。学生の頃はそういうことを話せる友人がいたけれども、同年代が就職や結婚などをしていくに連れていなくなってしまった、という人もいます。存在自体が稀少なため、自分に似た関心や欲求を持つ方をみつけるのは困難でしょう。哲学について話したいが、なかなか話し相手がいない、という問題です。

2. しゃべる機会がない

哲学的な話題は日常的な場所ではなかなかしゃべることができません。職場・家庭・学校でしゃべれる話題には限界があります。「そもそも〜」とか「〜とは何か?」といったかたちで議論を始めたり、歴史上の有名な学説や考え方を参照して話をするといったことは、「くどい」「しつこい」「関係ない」と思われてしまうのが多いのではないでしょうか。それは専門機関である大学や研究室にいるわけではないので当然のことですし、大学のような専門機関であっても(いやむしろ職業的であればこそ)、すぐに結果が出ない非生産的なことを延々と議論する余裕がない、ということがあり得ます。

自分の知的な関心を満たすために、大学が主催する公開講座やシンポジウム、カルチャーセンターへと足を運ぶのもひとつの手ではありますが、しゃべるのは前に座っている先生だけで、突っ込んだ質疑応答の時間がとってもらえるわけでもありません。こうしたイベントへの出席や読書はどうしてもインプット中心なため、アウトプットがしたい場合には不向きな手段だと言えるでしょう。哲学について話したいが、チャンスがなく、どこに行けばいいのかもわからない、という問題です。

3. しゃべってもわかってもらえない

「哲学しゃべりたい欲」を持つ原因はなんでしょうか。もちろん誰にでも当てはまるような普遍的な答えはありませんが、幾つか考えることができます。ここでは二つほど挙げておきます。

まず、「いいものをみると自分でもしてみたくなる」というパターンです。たとえば音楽であれば、プロの歌唱や演奏を聴いていれば、自分でも唄ってみたい・演奏してみたいと思えて来るのはごく自然な感情ではないでしょうか。スポーツやテレビゲームでも、プロのスーパープレイをみれば自分もプレイしたくなる。おもしろいマンガを読めば自分でも描いてみたくなってくる。いずれもよくある感情の動きだと思います。どの場合も、プロに影響されて自分でもやり始めたくなってくるわけですが、ほとんどの人は別に本気でプロを目指しているわけでもなければ、そうしたいわけでもないでしょう。飽くまで趣味として楽しみたい、ということです。

音楽の場合は、自分で唄って楽しみたくなれば、カラオケに行くこともできますし、楽器を手に入れて練習したり、音楽教室に通ったりコピーバンドを組むことができます。プロの演奏を聴くというインプットだけで満足できないとなれば、素人向けのアウトプットの手段がそれなりに用意されているわけですね。

しかし、哲学の場合は「おもしろい!」「すごい!」と思えるテキストや考え方に触れ、自分でも何か考えてみたくなったところで、なかなかアウトプットの機会を持つことができません。単なる受け売りする機会さえもあまりない上に、自分のオリジナルのアイデアともなると誰を相手に話していいかわからないこともしばしばです。インターネットの時代ですから、自分のブログやホームページに掲載するというのもひとつの手ですが、やはり顔がみえないと本当にどの程度のインパクトを与えているのかわからない、あるいは、独り善がりに陥っているかもしれないと不安になるという難点があります。

「哲学」を一種の趣味と捉えると、インプットの機会が大量に与えられているのに、それに見合うアウトプットの機会が提供されていないというアンバランスの問題があるわけですね。この点で、趣味としての哲学は「わかってもらえていない」という段階です。

次に、既存の哲学や哲学研究者の模倣ではなくて、「自分自身に固有な疑問や主張を一人で抱え込んでしまっている」パターンがあります。

そういう人は非常に悩んでいて、苦しんでいる場合があるのですが、しかし周囲としてはそれが「哲学」によって応答されるべきかどうか、必ずしもわかりません。ですから、他の所謂「お悩み」と同じように、人生相談や慰め、共感による「癒し」・ケアによって解決がはかられるわけですが、問題を抱えている本人にとっては必ずしもそういうアプローチに満足を覚えない、「わかってもらえない」と言うことがあり得ます。

癒しやケアではなくて、論理的学問的なアウトプットによって自分自身の問題を考えたいという人にふさわしい機会が提供されていない、という問題が存在するのです。

B.「哲学しゃべりたい欲」とはどんなものか

上記のように「しゃべりたいけどしゃべれない」という状況があり得るわけですが、ではここで言う「しゃべりたい」とは具体的にどういうことでしょうか。発信・反応・議論という三つの観点からみていきましょう。

1. 発信したい

哲学や哲学史のテキストを読んでの自分の解釈や、学んだこと・考察したことを他者に伝えたいという欲求です。それは「受け売り・知識・情報」の段階にあることもあれば、哲学とそれ以外の分野の発想を組み合わせた「思いつき・発想・アイデア」であることもあるでしょう。さらに色々な文献を読みこなしたり、意見を総合することによって独自性のある「妄想・電波・信念・我流」の哲学に到達する人もいるかもしれません。それらがどんな内容であるにしても、とにかく考案した本人からしてみればまずは聴いてもらいたいと思うものではないでしょうか。

2. 反応みたい

自分が発信したことについて、やはり他の人の反応を求めてしまうのも人情です。どういう種類の反応を求めるかには、大雑把に言って二種類あるでしょう。それぞれ「知性的承認」と「情緒的承認」と呼んでおきましょう。

2‐1.知性的承認

まず、自分が考察したこと、論じたことが勘違いや論理的に誤っているのではないか、結果として知的に孤立した状態にあるのではないか、という懸念があるでしょう(もちろんそういうことを一切に気にしない!というタイプの方や哲学的立場もあり得ますがここではひとまずそうでない場合を考えています)。自分の主張手にどの程度の客観性・説得力があるのか、ポジティブであるにせよネガティブであるにせよ反応をもらいたい、と感じる人々がいます。自分の発信したことを理屈として筋が通るかどうか受け止めてほしいという知性的承認の欲求と言えるでしょう。

2‐2.情緒的承認

一方で、そういった理論的なこと以前に「哲学を語る私」を許容してほしい、そういったことが言える居場所(アジール)があってほしいという欲求もあります。普段の生活をそこで執り行うような、日常的な場所――職場・家庭・学校などではなかなか机上の空論や突飛な空想、上から目線や反道徳的とも思われるような発言は言いにくいものです。しかし、そういったことを改めて疑い、吟味検討し直すような自分の存在および発言を受け止めてほしいと思う人もいるでしょう。実際に肯定的に受け止めるかどうかは別としても、とにかく哲学的に考えてしまう自分をいったん受け入れてほしいという欲求。その上での他者のリアクションがみたいという欲求です。先ほどの「知性的承認」よりもウェットだという意味で、これを情緒的承認への欲求と呼んでおきましょう。

知性的承認にせよ、情緒的承認にせよ、他者との関わりの中で自分自身の立場に耳を傾けてもらいたいというごく自然な要求にもとづくものかと思います。

3. 議論したい

単に発信する、単に聴いてもらうというばかりではなくて、もっと積極的に主張の遣り取りをしたい、議論の応酬がしたいという人もいます。実際、相手の主張への賛否はともかくとして、何度もやり取りして議論を深めることで議論自体のレベルがあがってくると共に、お互いの考え方・論じ方への理解も深まります。

以上、簡単ではありますが、三つの観点――発信・反応・議論の三点から「哲学しゃべりたい欲」を分析してみました。ではこのような「哲学しゃべりたい!」を満足させるにはどうすればよいのでしょうか。もちろん満足させる手段はひとつではないでしょうが、哲学道場がその有力なひとつであることを説明したいと思います。

C.「哲学しゃべりたい欲」を満足させるにはどうすればいいか

では「哲学しゃべりたい欲」を満たすにはどうすればよいのでしょうか。ひとつの回答は哲学道場に出席することです。発信・反応・議論の三つの観点からそれを説明しましょう。

1. 発信できます

哲学道場は討論会ですので、もちろん出席者には自由な発言権があります。また、約4時間弱の時間をとって8名前後の参加者で話をしますので、平均すればだいたい一人30分弱の発言時間があります。もちろん黙っていてもかまいませんし、あるいは改めて主張するほどのことがないときは、他の人へのリアクションをとったり、ワケノワカラナイことを述べ立てる人に意味を問い正してもよいでしょう。あなたがそれを「哲学」だと考えるのならば、何を言っても問題ありませんし、哲学道場はまさにそういう何でもアリの雰囲気を特色としています

また、哲学道場は単なるフリートークではなくて、最初に話の端緒・ネタ振りとして希望者に一定の内容を発表してもらうという形式をとっております。既にまとまった主張を持っている方、自分の考察した問題をみんなに伝えたいという方には、こちらの「発表」をオススメします。発表者はみんなから集中砲火を浴びることになりますが、安心して下さい、失敗しても何のペナルティーもありません。

2. 反応みられます

また、発信すれば、当然それに応じたリアクションが返ってきます。あなたの言うことが支離滅裂であれば「わからん!」と言われますし、意味の共有されていないジャーゴンや専門用語、ローカルな話題を持ち出せば詳しい説明が求められることもあります(しかし、そういう言葉を使ってはいけないわけではありません)。話の筋が通っているかどうか確認されたり、極端な具体例に対してもあなたの主張が適用可能かどうか聞かれたりするでしょう。しかし、基本的にはどんなに突飛な主張であっても無視されることはありません。

哲学道場の出席者からは多様な反応が期待できます。というのも、多様な背景を持った出席者が集まっているからです。年齢はティーンエイジャーから高齢者まで、職業で言えば、公務員・製造業(ゆば製造業・製糖業など)・編集者・学生(学部生・大学院生)・NPO代表・経営者・技術者(プログラマー・Webデザイナー)・サービス業(福祉介護・塾講師・医師など)・総務・事務職・宣教師・ニート・無職などです。話している人が抽象的な言葉を使っているうちは頷いている人でも、ちょっと具体的な話となると途端に反対し出すといった光景はよくみられます。

3. 議論できます

哲学道場では毎回異なるテーマで議論を進めますが、特に例会の最後で意見をまとめるとか、合意を取るといった手続きは行ないません(スポーツのように絶対的なルールを設定しているわけではないのでそうなります。実際、一回でも参加していただければ、それが本質的に不可能であることがわかっていただけるかと思います)。参加者それぞれが価値・目的とするところは違いますし、「哲学道場」も自分勝手に利用していってもらえたらよいと考えています。しかし、哲学道場で何度も議論を交わしてくると、それなりに得られるものはあります(それを重要とみるかどうかは人それぞれですが)。

第一に、同じ人を相手に議論を繰り返すと、次第に相手の出方が予想可能になってくるというのがあります。似たような考え方の人には似たような対応でうまく処理できるようになってくるわけです。

第二に、相手の出方が読めて来るだけではなく、だんだん相手の論法や考え方がつかめてくるというのもあります。そうすると、あるテーマについて従来の自分の考え方の枠組みだけからの主張だけではなくて、他の人の考え方のフレームワークを使った主張も自分でできることになります。言わば相手の「技」を盗むことができるようになるわけです。

第三に、議論をしていないとき、たとえば一人で哲学や他の諸学について書かれたテキストなどを読んでいるときにも、読書をこうした議論の状況に置き換えてみると、他の人の読み方や考え方、解釈の仕方を適用することができるようになります。著者の考え方が哲学道場の○○さんに近いと思えば、その著者の主張を批判するのに○○さんが道場で浴びていた批判が有効になるかもしれません。


以上、発信・反応・議論の三つの観点から、「哲学道場」が「哲学しゃべりたい欲」を満たせる場であることを説明してみました。もちろん、「自分は公開講座に参加したり、読書しているだけで充分」とか「インターネット上で議論するだけで満足」という方もおられるでしょう。しかし、インプットを楽しむためにちょっと自分自身でアウトプットしてみることや実際に対面の上で自分の考え方を相手に果たしてわかってもらえるのかどうかを試してみることも、学問を深く理解し、楽しむためには有益です。

何もあなたが哲学道場の目的や運営に関わる必要はまったくありませんが、知的な生活を満足のいくものにするために「哲学道場」を利用していただけるのならば、運営側としても嬉しいですし、また他の参加者の方にとっても話し手・聴き手が増えることになり、結果的に有益になるわけです(帰結主義的な考え方ですね)。

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